2010年11月01日

『機』2010年11月号:娼婦論の古典 山田登世子

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感性の歴史家、コルバン
 少しでも歴史に関心のある読者でアラン・コルバンの名を知らない者はないだろう。歴史の領野を広げる作品を次々と世に送りだしてきたコルバンは、今や「感性の歴史」の第一人者である。(略)
 この歴史家の初めての書物、それが『娼婦』であることは幾度も強調されてよいだろう。次々と新しいテーマをとりあげながら、コルバンの仕事は一貫して「身体」から離れることがない。欲望を秘め、欲望に引き裂かれ、性の魅惑と恐怖のあいだを揺れ動く身体……。コルバンの方法論の鍵は、こうした身体の「恐怖と快楽」に在る。においも海も、あるときは恐怖の対象であり、あるときは快楽の源泉として人間を魅了する。身体とそれをとりまく環境は、恐怖と快楽の交錯した関係を織りなしているのだ。
 そうした身体のなかでも、「性」ほどその交錯が著しいものはない。快楽の源でありながら、同時に恐怖を秘めた女の肉体。時は十九世紀、ブルジョワジーの世紀である。この世紀こそ、どの時代にもまして性の時代であったことは、フーコーの『性の歴史』に詳しい。貴族の血が「血統」であったのにたいし、「ブルジョワジーの血とは、その性なのである」。こうして十九世紀はかつてなく性を監視し、観察し、性にとりつかれた時代となる。
 フーコーの性の政治学に大きな影響をうけたコルバンは、膨大な資料を駆使しつつ十九世紀ブルジョワ社会の性の風景を描きだしてゆく。ここでコルバンが見出した運命の資料ともいうべきもの、それが、公衆衛生学の祖パラン=デュシャトレの書物『十九世紀におけるパリの売春』である。後にコルバンはこの書を監修して現代の読者に供していることからも、そのインパクトの大きさがうかがえる。

今も読み継がれるべき書物
 パラン=デュシャトレは、「性液の排水溝」の必要を説いて「公娼制度」を推奨した、売春必要悪論の大イデオローグである。排水溝にはおぞましいイメージがともなう。事実、都市化がすすみ、多数の労働者がパリに集中した資本主義の発展期、都市の身体感覚は過敏になっていた。伝染と遺伝の恐怖が広がってゆく。なかでも性病はおそるべき恐怖の的となってたえず人々の想像力を呪縛した。ユイスマンスやモーパッサンの作品には、梅毒の恐怖と、その恐怖にないまじった倒錯的な魅惑とが偏執狂的な力強さで描かれている。(略)公衆衛生学がこの十九世紀に誕生したのは偶然ではない。こうした遺伝の恐怖、梅毒の恐怖と闘うイデオロギーとして衛生学は生まれるべくして生まれたのである。(略)
 パラン=デュシャトレのような公娼売春の提唱者をうみだしたフランスは、どの国にもまして性的欲望があからさまな国なのであり、だからこそコルバンのような娼婦論が書かれるべくして書かれる国なのである。性にかんする事実と資料がこれほど際だった国はほかにないだろう。あまり強調されないことだが、「性の理論」も「性の歴史」も、フランスの思想家や歴史家の手になるべくしてなったのである。
 事実、娼婦にかんしてコルバンの『娼婦』を超える作品は今後もないことだろう。リュシアン・フェーヴル以来の感性の歴史学の系譜を考えても、性的快楽というテーマから見ても、この書物の占める地位は想像以上に大きい。
 二十一世紀、フェミニズムの洗礼をくぐった世界で、公娼制度はとうに廃止され、快楽はさまざまな規制から自由になって、先進国では貧困売春の数は減少した。だが性のにおいはどこまでも身体につきまとってやまない。わたしたちは今も悦楽と不安と孤独に悩むブルジョアジーの末嬰であり続けている。身体こそは、今なお謎と恐怖を秘めたわたしたちの最後の他者ではないのだろうか。今も読み継がれるべきこの書物がここに新しい装いを得て世に送られるのをよろこびたい。(後略 構成・編集部)

(やまだ・とよこ/フランス文学者)