2010年11月01日

『機』2010年11月号:モンゴル帝国から大清帝国へ 岡田英弘

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朝鮮史からの出発
 私は一九四七年、旧制の成蹊高等学校でも理科乙類に進んだ。たまたま成蹊の図書館には、南条文英先生が集めた漢籍と中国文学と東洋史の研究文献の大コレクションがあった。それで、理科系の勉強のかたわら、毎日東洋史関係の書物を三冊ずつ借り出しては、下校の電車のなかで一冊読み、夜、家で一冊読み、朝、登校の電車のなかで一冊読んでは図書館に返して、また三冊借り出すという生活を続けた。
 大学を受験するときになって、文学部に志望を変えて、朝鮮戦争前夜の一九五〇年四月、大学が新制に切り替わる直前、旧制の最後の年に東京大学文学部東洋史学科に入った。
 当時、文学部に入るのは失業に直結する道で、しかも日本人がアジア大陸から総引き揚げの時代だったから、東洋史は無用の学科の最たるものだった。それを覚悟で選んだのだから、なるべく不人気な分野をやろうと思って、朝鮮史の末松保和先生の講義を聴いた。大学一年の時に初めて書いた学術論文が、創立されたばかりの朝鮮学会の学報に掲載された。学者人生のはじまりである。卒業論文も朝鮮史に関するものだった。

満洲史、モンゴル語を修める
 そうしたら、もっと不人気な分野があって、それが満洲史だった。私は誘われて十七世紀清朝建国期の満洲語の年代記『満文老檔』の講読グループに参加し、日本語訳を作った。この仕事が、恩師・和田清先生の斡旋で、五名の共同研究として、一九五七年の日本学士院賞を受賞した。このとき私は二十六歳で、史上最年少だった。
 清朝の支配者の言語である満洲語を学ぶなかで、中国とは異なる満洲文化の由来が、じつはモンゴルにあることを私は深く感ずるにいたった。ちょうどその頃、ソ連からアメリカに亡命していた世界的に著名なモンゴル学者ニコラス・ポッペが、東京駒込の東洋文庫でモンゴルの英雄叙事詩について講演した。これを聴いて私は感激し、ただちに先生に弟子入りを懇請して、一九五九~六一年、フルブライト交換留学生としてシアトル市ワシントン大学に留学し、ポッペ先生のもとで中期モンゴル語を修めた。

中国史の見直し
 一九五九年は、中国共産党がチベットに侵攻し、ダライ・ラマ十四世がインドに亡命した年だった。ロックフェラー財団の世話で世界中にチベット研究センターが開かれ、シアトルにもサキャ派代表者の一家が招かれてやってきた。先にニューヨークに亡命していたダライ・ラマ十四世の長兄、青海のクンブム僧院の院長だったトゥブテン・ジグメ・ノルブがここに合流し、私とは五十年来の親友となった。おかげで私はチベット語とチベット学も学んだ。
 知る人は少ないが、チベット学はモンゴル帝国以後のモンゴル研究には欠かせない。なぜなら、十六世紀以降、モンゴル人はみなチベット仏教徒になったからである。もちろん、チベットを保護下に入れた大清帝国研究にもチベット学は不可欠の分野である。こうして私は、満洲人やモンゴル人など、中国を支配した人々の立場から中国史を見直すようになった。
 私は帰国後の一九六二年以来、モンゴル語や満洲語史料に基づく論文を、日本語と英語で精力的に発表してきたが、それらを総合した著作は未だ刊行されるにいたっていない。そのまま四十年以上が経過し、近時、論文を掲載した学術誌・会議録を探しにくくなった若い世代の研究者から、過去の著作を集めた一巻を求める声が強くなった。そこで、私の著作のうちから特に重要な論文を選び出し、校正を加えて体裁を統一し、世間に提供したのが本書(『モンゴル帝国から大清帝国へ』)である。(後略 全文は『モンゴル帝国から大清帝国へ』収録)

(おかだ・ひでひろ/歴史学者)