2010年10月01日

『機』2010年10月号:科学の科学――コレージュ・ド・フランス最終講義 P・ブルデュー

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科学の危機
 コレージュ・ド・フランス最後の年の講義のテーマとして、なぜ科学を選んだのか? そして、この講義の限界と欠陥にもかかわらず、なぜ公刊することにしたのか? この設問は単なる修辞ではありません。わたくしからすれば、修辞的な答えを述べることは許されない、きわめて重大な設問です。科学の世界はいま、恐るべき後退に脅かされていると思います。宗教的、政治的、また経済的権力に対して、さらには、少なくとも部分的には、科学の独立のための最低限の条件を保障してきた国家官僚機関に対して、科学が少しずつ獲得してきた自律性が非常に弱くなっています。同じ専門家どうしの競争という論理のような、科学の自律性が確立するにつれて整備されてきた社会的機制が外部から押しつけられた目的に利用される危険性が出てきました。経済的利益とメディアの誘惑とへの服従が外部からの批判と内部からの誹謗(一部の「ポストモダン」妄想はまさにその最近の発現です)と相乗的に作用し、科学への、特に社会科学への信頼を掘り崩しかねない状況です。要するに、科学は危険にさらされています。また、そのことからして、科学が危険なものになっています。

商業的利害に屈する科学
 軍事研究は言うまでもなく、特に医学やバイオテクノロジー(特に農業部門で)のように、より一般的に遺伝学のように研究成果の収益性が高い分野において、経済のさまざまな圧力が日毎に強まりつつあることを、すべての兆候が示しています。多くの研究者あるいは研究チームが、特許によって商業的効率の高い製品の独占を図ろうとする大企業の管理下に入っています。基礎研究(これは大学の研究所で推進されてきたわけですが)と応用研究のあいだの、だいぶ前からあやふやになっていた境界が消滅しつつあります。自分の研究の論理に根ざす研究計画以外は見向きもしない、そして「商業的」注文に対しては、自分の仕事に必要な研究費を確保するために不可欠な最低限の譲歩をおこなうにとどめる、利害に超然とした科学者は(略)次第に片隅に追いやられ、利潤の至上命令に従属した注文を満たすために働く、半ば企業的な大チームが重用されるようになっています。
 産と学の絡み合いはきわめて緊密になっているので、研究者と商業的利害の葛藤の新たなケースを見聞きしない日はありません。かつて物理学の分野で見られたことですが、競争の論理はこの上もなく純粋な科学者たちを、自分の研究成果が経済的、政治的、あるいは社会的にどんな役に立つのかといった問題には目もくれないように仕向けたものです。それが今は、その競争の論理が企業の利益への服従(仕方なく、あるいは進んで、と程度は様々ですが)と組み合わさって、相乗的に作用し、多くの研究領域が他律性の方向に流されていっています。
 社会科学については、直接的に有用な、つまり直ちに商品化できる製品を提供することはできないのであるから、外部からの働きかけにさらされることは比較的少ないと考えるかもしれません。実際には、社会科学の専門家、特に社会学者はたいへん強い働きかけの対象になっているのです。これは、支配層の見方に奉仕する、ときには不作為によって(この場合は研究能力が不足していればそれで足ります)奉仕する立場をとる者たちには、物質的にも象徴的にもポジティヴな、しばしば非常に採算のよい結果をもたらします。
 一方、実直に自分の仕事をやることによって社会の真実のいくばくかを開示することに寄与する者たちには、ネガティヴな、悪意に満ちた、ときには壊滅的な結果をもたらします。
 そうしたわけでわたくしは、科学を歴史学的・社会学的分析の対象にすることがどうしても必要であると考えました。(後略 構成・編集部 加藤晴久=訳)

(Pierre Bourdieu /社会学者)