2010年10月01日

『機』2010年10月号:詩とはなにか 金時鐘+吉増剛造

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容易な深さではないところ
【吉増】 藤原書店さんがお出しになった、この『金時鐘四時詩集 失くした季節』に、「沈黙十年のあと――今、その裡に燃える詩」という帯が付いていまして、「八十歳を超えてなお闘いの姿勢をくずさぬ」とありますね。「帯」というもの、これをじっと見詰めているという時間がありました。そうしますと、この「帯」から、この書物が、とても深い時間をはらんでいる詩集であるということが、しかもその深さが容易な深さではないところを指し示しているのだと、だんだんとわかってきていました。『境界の詩』が途中で刊行されて、それを挟んで『化石の夏』がちょうど十二、十三年前ですね。
 あたらしい詩集も夏から始まっていますけれども、『化石の夏』……この「夏」が胚胎していた。金時鐘先生という稀有な詩人のたどる道でなければ、たどれなかったであろうような非常な、深まりにまで届いているのだということを「帯」を通じて深く直観しているときがありました……。タイトルとか「帯」に漂っている空気というのは恐るべきものなのだと思います……。藤原さんが「帯」でと、たった今のご挨拶で、十年とおっしゃったことがとてもよくわかります。おそらく、ですから、十年より幅のある、もう少し深い渕のような時間がここにはあるのですね。『化石の夏』のあとがきには、発表されたものを拾い集めたと書いてられましたが、……それにしても、この「化石」の「夏」とは、容易ならぬものの萌芽であったのかも知れません、……。そうして、十二、三年が新しく過ぎていって、こんどの新しい詩集は、なんといったらよいのでしょうね、……大分、圧力がかかったといいますか、こうした場に立たなければ出てこなかったような、……「時」や「石」の萌芽なのか……そういうものが顔をのぞかせている。これは容易ならざる書物だという感想がありました。
 今日はその十二、三年の丁度真ん中あたりで、先生のお声に接したときの驚きから始まりました、……この"驚き"を先生の前で、石を割るようにして、分断し、分析をしてみたいのです、……。私なりの、最初の歩みにしかすぎませんけれども、金時鐘先生の世界への歩みを、今日は試みてみたいと思って、参りました。

詩の絶対純粋者
【金】 吉増剛造の詩というのは、既に現代詩と言われるものの共通項のように分かち持っている判断基準、尺度ではとてもはかれることじゃない。ずっと通して読みますと、これは私の確信に近いことですが、吉増剛造は、詩における絶対純粋者ですね。読み手の斟酌を一切しません。それでいて吉増剛造の詩に入り込める鍵言葉は、作品の下地にきちんとしつらえてあります。探せるものなら探してみろと言わんばかりに、何か奔放な大きなうねりのように、波が高まって沈み込むように。これは文字を書いたというよりは吉増剛造の音声、音調の波がこの詩集を波打たしているんだというふうに見えましたね。それで何かこういう、何も仕掛けなどないように見えながら、鍵になる言葉がちゃんとしつらえてあります。
 何よりも吉増剛造をして、この音調の、波のうねりのような詩を書かしめているものは、ぼくは非常に単純かもしれませんが、すっかり整ってしまっている日本語。吉増剛造の母語にもなるわけですね。この、すっかり整いすぎてしまっている日本語への不足感が、吉増剛造には何か生理……怨念のようにあるように思います。吉増剛造という詩人は他国の言語、三つも四つも多分外国語を身につけていらっしゃると思うんですが、そういうふうに外国語、日本語でない言葉をあわせ持っている人の持つ、日本語の音の間口の狭さみたいなものを、日本の詩人としては初めて吉増剛造が言っているのではないかなと。 (構成・編集部)

(キム・シジョン/詩人)
(よします・ごうぞう/詩人)
*全文は『環』43号に掲載。