2010年09月01日

『機』2010年9月号:舞の霊性 鶴見和子

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 わたしがはじめて西川千麗さんの舞を拝見したのは、「阿留辺幾夜宇和」の東京公演であった。河合隼雄さんがお招き下さった。わたしはこんなに魂をうつ日本の創作舞踊があるのか、と驚嘆した。そこで感心したのは、「舞の霊性」ということである。このたび、「よだかの星」のビデオを拝見して、おなじ「霊性」を感じた。「阿留辺幾夜宇和」は、ユング派の臨床心理学者の河合隼雄さんの『明恵――夢を生きる』(The Buddhist Priest Myôe: A life of Dreams)にもとづいており、「よだかの星」は、詩人宮沢賢治の同じ題名の作品によっている。明恵は仏教の高僧であり、「よだか」は鳥である。それぞれ文体も主題も異る原作が、千麗の舞によって、その精髄がとらえられると、共通した霊性を帯びてくる。それは、ともに魂の昇華であり、飛翔である。
 かつて、バレエ研究家の蘆原英了は、西欧のダンスは、天に向って飛び、日本舞踊は、地に深く沈潜すると云った。日本舞踊は、すり足と腰を低く入れることによって、飛翔をあらわすのである。たとえば、能の「羽衣」は、水浴みするために、羽衣を松の枝に掛けておいた天女が、その羽衣を、漁夫に奪われる。悲嘆に暮れるが、やっとの思いで羽衣を返してもらった天女が、その羽衣を身につけ天に舞い上るという中国の伝説に依拠している。天女はすり足で、腰を低く入れて、飛び上ることは全くない。大地に深く沈潜することによって、天空高く舞い上る感動を、観るものによびさます。その時、舞手自身は、無心に天空に舞い上る心地なのである。日本舞踊のこうした矛盾の構造は、千麗が、深く、そして的確に身につけた舞の特徴である。そうすることによって、魂の飛翔は、感動的に、身体で表現される。
 西川千麗の創作舞踊は、日本の伝統に深く根ざすことによって、日本文化の枠をこえて、人類共通の魂を呼びさます力を持つ。

(構成・編集部/写真・広瀬飛一)
(つるみ・かずこ/社会学者)