2010年07月01日

『機』2010年7月号:本郷の「孤城」より 石牟礼道子

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多田先生とのご縁
 訃報がとどいた時、私は、冥府へ向けて書くかのごとき一文を、草しておりました。
 いつお果てになられても、不思議ではない御病状を直視しつつ、言葉選びをしていた手元が、ひととき止まりましたのは、昏れ入る海の面が、幾重にもよじれていたからでございます。
 ああもうこれで、ご返信は来ないのだとわが胸に云いきかせました。二回目の往復書簡を続ける返事を藤原良雄さまに伝えたばかりでした。
 いまわの時刻が刻々と近づいている中で、鎖骨が折れましたとか。一人の全生涯を死に至らしめるのに、ここまで入念に致命的な打撃を与えねばならないのでしょうか。富雄先生は全面的にそれを受容なされました。
 十字架から下された聖なる人を迎える気持になって、私は遠い所からこのお方をお迎えいたしました。
 式江さまのご悲嘆はいかばかりか。これから先のおさびしさが、ご心身をいためないよう、お祈りするばかりでございます。奥さまの、想像を絶するご献身のおかげで、私ごとき者まで、先生の最後期の思索の、お伴をさせて頂きました。
 理論にはほとんどなりえない私との文章のやりとりに対して、先生は『言魂』のやりとりであるとおっしゃって下さいました。この上ない書名をたまわり、お形見と思い、大切にいたしております。
 そもそもは御高著『免疫の意味論』『生命の意味論』を人間学研究会の仲間と読んだことが、ご縁のはじまりでございました。
 ことに、『生命の意味論』のまえがきで、
「わかりにくい所は飛ばして読んでいただいてさしつかえない。またどこから読みはじめてもかまわない。」
 とお書きになっているのが、おそるおそる読んでいた私には天の声とも聞え、読書の極意をさずかったかのように、宇宙の詩情を交じえながら読めるようになりました。

往復書簡の最後の手紙
 理解力が拡散して、元へもどって来ないことがありましても、今のところ私はこの御著書を、二十世紀への創世神話として読んでおります。先生が御亡くなりになられてからは一層その感じは強くございます。
 何者でもないただの一もの書きが、台所の隅で細胞のことなど考えておりますと、この世紀をアニミズムでとらえ返してみたくなるのですが、それというのも、ご著書の中に、「元祖細胞」というのが出てまいり、私は常ならず親愛の情を抱きまして、エプロンのポケットに、元祖細胞を入れて連れ歩くようになったからでございます。
「ここに元の祖 細き胞の命いでまして 天地の間のことを語り給ひき」
 などと呟きながら多田先生のご受難を考えていると、制度として発達した文明社会では、肉体や魂を持った学問は、制度への供犠としてあつかわれるのではないか、そういうことにはさせまいと思ったことでした。
 東京の友人が二年前のご夫妻の、新聞写真を送ってくれました。のどに食事用の管を入れて、式江夫人が「よござんすか、よござんすね。入りますっ、ポン」とおっしゃって、命がけの食事がはじまります。たぶんそれが無事にすんで、くつろぎのお時間なのでしょう。じつにおしあわせそうな、あけっぴろげなお写真をみて、涙がこぼれました。――こういうしあわせもおありだったのだ、よかったよかった。
 最後のお手紙には、本郷の「孤城より」とありました。免疫学の世界的権威とうたわれながら難病に倒れ、ご不自由な躰をひきづってリハビリ問題の先頭に立たれたり、農業を基本にすえた、文明論を立案なさったり、この「孤城」は、後世へのみちびきが、なつかしく灯っているお城となりました。
 あの世との交信を考えはじめています。『生命の意味論』につなげて、神話と申しあげるゆえんでございます。 (後略)

(いしむれ・みちこ/作家)
*全文は『環』42号に掲載