2010年06月01日

『機』2010年6月号:区別される身体 A・コルバン

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客体としての身体と固有の身体
 「われわれ人間が身体によって存在するというのは、奇妙なことだ。この世のどんなものとも同じように、身体の変化は人生の年齢にしたがって、そしてとりわけ死期が近づくにつれて知覚される」。ところがこの根本的な奇妙さは完全な親密さと結びついており、だからこそ客体としての身体と固有の身体という区別が古くからなされてきた。
 身体は空間の中でひとつの場を占める。そして身体そのものがひとつの空間であって、肌や、声の響きや、発汗の前兆などいくつかの外観をもっている。この物理的、物質的な身体は触れられ、感じられ、見つめられる。それは他人が欲望をこめて見たり、詮索したりするものだ。身体は時間とともに消耗する。身体は科学の対象であり、学者が操作したり、解剖したりする。学者は身体の質量、密度、大きさ、体温を測定し、その動きを分析し、それに働きかける。しかし解剖学者や生理学者が扱うこの身体は、快楽や苦痛を感じる身体とは根本的に異なる。
 本巻で研究される時代が始まった頃に隆盛を誇っていた感覚論の観点からすれば、身体は諸感覚の場にほかならない。自分自身を感じるということが生命と、経験の起源と、体験された時間を構成する。それゆえ身体は「悲愴な主観性と、肉体と、感受性の側に位置づけられる」。
 私は私の身体の内部に存在し、身体から離れることができない。この自己との絶えざる共存が観念学派、とりわけメーヌ・ド・ビラン〔一七六六―一八二四。フランスの哲学者〕の重要な問いかけのひとつの基盤となる。主体――自我――は身体化されてはじめて存在する。主体と身体のあいだには、いかなる距離も設けられない。ところが身体というのは眠り、疲労、性の交わり、エクスタシー、死において――あるいはそれらによって――いたるところで自我の支配から逃れる。身体はまた未来の死体でもある。こうした理由から、哲学の古い伝統では身体が魂の牢獄、墓場と認識され、身体は「暴力や、不純や、不透明さや、頽廃や、物質的抵抗など暗い側」に位置づけられていた。魂と身体――後には心的なものと身体的なもの――を繋ぐ多様な結合様式は、絶えず言説の中に表れてきた。
 ところが科学と働きかけの対象としての身体、ものを生産し、実験される身体と、妄想された身体、「力と衰弱、行動と愛情、精力あるいは脆弱さの全体」としての身体のあいだに横たわる緊張関係を、歴史家はたいていの場合無視してきた。本書が試みるのは、両者の均衡を取り戻すことである。ここでは享楽する身体、苦しむ身体、妄想された身体が、解剖された身体や鍛えられた身体と少なくとも同程度の重要性をもっている。

均衡の結果としての身体
 私が手短に触れたこの古典的な区別は、身体を主体の安定した領域と見なすものだが、十九世紀末以降は位相が変化する。身体を社会的に管理するという意識がしだいに強くなるのだ。この新たな文化主義的観点によれば、身体とはひとつの構築作業の結果であり、内部と外部、肉体と世界のあいだに築かれた均衡の結果にほかならない。一連の規範、外見をめぐる日常的な作業、相互作用の複雑な儀礼、共通の様式や姿勢にたいして各人が自由に対処できること、社会によって要請される態度、何かを見たり、特定の姿勢をとったり、動いたりする際の通常のやり方などが、身体の社会的構築の要素なのである。メークのしかた、化粧方法、さらにはタトゥーの入れ方――必要とあらば身体の切断のしかた――、そして衣服のまとい方などはすべてジェンダーや、年齢層や、社会的地位や、社会的地位を手に入れたいという主張を表す指標なのである。逸脱でさえ社会的、イデオロギー的状況の影響力を語っている。

身体とはひとつの物語
 客体としての身体と固有の身体というあまりに短絡な区別のほかに、自己のための身体と他者のための身体を対比させる区別もあり、これは自己喪失を試みるという感覚や、「主体であり、自分の世界の支配者であるという特権」を失うかもしれないという不安を引き起こす。個人は自らの身体において、そして身体によって絶えず狙われ、観察され、欲望され、忌避されていると感じる。かつてジャン=ポール・サルトルが指摘した実存する身体と疎外された身体の緊張関係、他者によって所有される危険、他者の権力や企図や欲望に従属するという危険は、とりわけ性的関係の重要性を基礎づけるものだ。本書ではこの点がしかるべく論じられているし、さまざまな身体類型が社会的に形成されていくプロセスにもそれなりの位置があたえられている。性の結合、それを構成する融合の試みは、あらゆる愛撫と同様に二重の相互的な身体化をもたらす。性感帯に相互に入り込み、その結果各人の身体イメージが構築されるということは、あきらかにあらゆる身体の歴史の中心に位置する問題だ。
 主体としての身体と客体としての身体、個人的身体と集合的身体、内部と外部を隔てる境界の浸透性は、二十世紀になると精神分析の発達によってより微妙で、複雑なものになった。精神分析は本巻の時間的枠組みを超える。しかし身体性をめぐる現在の探究においては、たとえ直接言及しなくても、精神分析という参照枠の力を考慮せざるをえない。身体とはひとつの物語、一連の心的表象、無意識のイメージであり、社会的言説と象徴体系を媒介として、それは主体の歴史にそって形成され、解体され、再構築される。このイメージのリビドー的構造と、その構造を揺るがすあらゆるものが身体を臨床医学的な身体に、また象徴的な身体に仕立てあげるのだ。時代錯誤の危険と、さまざまな分析方法を組み合わせることの難しさを考慮して、これら一連のデータを本書の問題群の中に組み入れることはしない。しかし現代の多くの著作がそうであるように、本書のページをつうじてその反響が聞こえてくることはあるだろう。特にアンリ・ゼルネールが空想された身体について語るページがそうである。

身体をめぐる十九世紀の多くの刷新
 真に総括する試みが困難になるほどの広がりをもつ身体という歴史的対象を前にして、本書を読むことはあきらかに、単なる素人的な介入かもしれない。実際本書は眠りや老いの認識について何も述べていないし、兵士の身体と奇形の陳列については、次の第III巻で触れられることになるだろう。臨産婦の身体は前の第I巻で記述された。いくつか例をあげるならば、本書で強調されているのは臨床=解剖学的な医学と骨相学の影響力のように活動的なプロセス、麻酔の発明、性科学の誕生、体操とスポーツの発展、産業革命が課した新しいタイプの工場の出現、身体の社会的分類法の構築、自我表象の徹底的な解体などである。本書で問題になる長い十九世紀はじゅうぶん豊かな刷新を経験したのだから、こうした選択も正当化されるだろう。いずれにせよ、第I巻と第III巻を参照することによってはじめて、本巻は完全に理解されるはずである。

(Alain Corbin /歴史学)
(小倉孝誠・訳)