2010年04月01日

『機』2010年4月号:ミシュレ『フランス史』の全体像 大野一道+立川孝一

前号   次号


今、『フランス史』を読む意味
 二十一世紀の今日、わが日本でミシュレの『フランス史』を読む意味はあるのだろうか。あると信じるからこそ本書を刊行することにしたのだが、それはどうしてなのかを述べておかなくてはならない。
 ミシュレは本書全体の序文(一八六九年)の中で「復活としての歴史」を語っている。さらにはランス大聖堂の内陣ま上にある小さな鐘楼に彫られていた処刑者たちの姿を見て、中世の民衆の涙を、その過酷な現実をふいに思い出したという体験を述べている。
 本書には各所に、ある物に触れ(見たり、聞いたり、読んだりして)、とたんに過去の現実が、まるで水の中に落とした紙切れがあっという間に開いて草や花となるように、ミシュレの意識の中で生き生きと蘇ってくる様子が描かれている。この水中花の比喩はプルーストの『失われた時を求めて』で使われている比喩だが、ミシュレにあってもプルーストと同様の、まるで無意志的記憶としかいいようのないような体験が随所に見られるだろう。過ぎ去って永遠に消えたと思われているものが、その日常の息吹とともにミシュレの筆先からふいに「復活」してくるページを、われわれはいくつも読むことができるだろう。
 プルーストにはミシュレの文体を模倣した習作もあり、プルーストへのミシュレの影響がなかったわけではないだろうが、こうした過去の時間の無意志的復活という面でもそれがあったかどうかは分からない。一つ言えることは、プルーストにあっては「私」という主人公の、個人としての「失われた時を求めて」だったのにたいし、ミシュレの『フランス史』は、「フランス」という主人公の、集団としての「失われた時を求めて」の記録ではないかということである。

ミシュレの生きた時代
 それにしても、こうした過去への探究をいま読む意味はどこにあるのか。ここでミシュレの生きた時代に目を向けておこう。
 一七九八年、フランス革命のさ中に生まれた彼は、ナポレオン体制の終焉を一七歳で見る等、あまりにも目まぐるしく変動する社会の中を生きていた。とりわけ若い時期に体験した大事件は、全く新しい社会政治体制が到来し、旧来の価値観が音を立てて崩れ行くようなものだったにちがいない。若いミシュレは哲学、文学、歴史等の中でなにを専攻するかを迷いつつ、かなりの期間彷徨していたはずである。
 はっきりしたもの、定かなものが見えないとき、未来のほうに向って暗中模索するのではなく、自分たちの来し方を振り返り、自らの足許を固め、立ち位置を確かめ、そしてはじめて生きる自信も湧いてくるだろうと信じたとしてもなんの不思議もない。
 あれらの混沌の時代、確かなものは過去しかミシュレにはなかったのだ。過去は間違いなくあったものなのであり、歴史は間違いなく手ごたえを感じさせてくれるものだったろう。こうして彼は歴史を専攻する。そしてまず何よりも自己の属するフランスという共同体の過去の探索を始める。それが四〇年にわたって続けられ、この『フランス史』となる。ここには彼自身言っているように、ミシュレのすべてが籠められているのだ。

「自由」の闘争
 ただし、ミシュレの『フランス史』は一人の人間の自己探求の結果として生まれたのであって、フランスの過去の栄光を懐古するものではないし、若者たちに愛国心を吹き込もうとするものでもないことを確認しよう。
 彼には生涯を通して変ることない信念があった。それは、人間の歴史が宿命に対する自由の闘争であるという考えである。彼はそれをヴィーコから学んだと言っているが、もちろん、教わったのではなく自らの思索によって学びとったのである。「自由」こそミシュレのキーワードであり、フランスという言葉がもつ本来の意味なのだ。ここから、「決定論」に対する強い反発が生まれる。
 ミシュレが将来の方向を模索していた一八二〇年代、ヘーゲルの「歴史哲学」が哲学者クーザンによってフランスにもたらされ、ティエリの『ノルマン人によるイングランド征服史』(一八二五年)が書かれ、ギゾーの講義『ヨーロッパ文明史』がソルボンヌの聴衆を惹きつけていた。「歴史」がフランス人の心を捉えはじめたのである。ユゴーもまた『パリのノートル=ダム』によって中世に異様な彩りを与えた。
 ミシュレやユゴーの親たちの世代がその青春を捧げたフランス革命は、理性の光によって未来を創出しようとしたが、その壮大な冒険がナポレオンの敗北によって終わりを告げたとき、古い価値観がブルボン家とともにフランスに帰ってくる。「歴史」とは、個人の意志を越えた巨大な力――運命?――によって動いているのだろうか。

リュシアン・フェーヴルとミシュレ
 だが歴史の中の人間に最大限の自由を与えたミシュレは、歴史家である自分自身にも同様の自由を与えた。その意味で、彼はむしろ十八世紀哲学とフランス革命の子であった。
 さらに人間に対する共感あるいは嫌悪、主観的な解釈、そして想像力――職業的もしくは学者的な歴史にとっては望ましからざる資質を、彼はありあまるほど備えていた。それゆえに、十九世紀から二十世紀にかけて大学を支配した「実証主義」――科学崇拝――の下でミシュレには否定的な評価しか与えられなかった(「ミシュレはもう古い」、「あれは文学だ」)。
 だが、一人の個性的な歴史家が異議を申し立てた。『アナール』の創設者であるL・フェーヴルである。「ミシュレをご存じか?」という諧謔で始まる小冊子(一九四六年)には「ジュール・ミシュレあるいは精神の自由」という標題が付けられている。ドイツ軍による四年の占領から解放されたばかりのフランス人に向けて、フェーヴルが訴えたのは、この「自由」を取りもどせということであったが、その彼に勇気を与えてくれたのがミシュレであった。
 ヴォルテールやルソーではなく、ミシュレが選ばれたのは、彼が歴史家であったからではない。ミシュレが一九四〇年のフランス人と同じように「どん底」に転落しながらも、そこから再び立ち上がった人間であったからだ。


(構成・編集部)
(おおの・かずみち/中央大学教授)
(たちかわ・こういち/筑波大学教授)