2008年02月01日

『機』2008年2月号:満洲――交錯する歴史  玉野井麻利子

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●アメリカの研究者による“多言語空間”としての満洲を描いた問題作!

「空っぽ」の満洲イメージ
 昭和10(1935)年、当時の東洋協会において満洲への農業移民を奨励すべく、官僚、実業家、そして知識人を招いて座談会が開かれた。出席者の一人である永雄策郎は経済学者であり、当時大連にある満鉄本社に所属していた。彼はこの座談会で、満洲への農業移民が南米への移民といかにちがうかを強調する。
 永雄は、当時の日本を、イギリスとフランスと同様に「植民帝国」として扱っていること、ドイツと異なり、満洲への日本移民は「国家(ステイト)」を同時に運んでいること、それ故、そうした自覚を持つ人々が増えれば、今だ低調な満洲への農業移民も展望が開けるだろう、と述べた。
 しかし私が強調したいことは、満洲国の時代には、日本はすでに翻訳文化になじんでいた、ということである。ジョン・ロバート・シーリーの著、The Expansion of England:Two Courses of Lecturesは1883年、ロンドンで出版された。日本でこの書がいわゆる植民政策にたずさわる者にとっての、ひとつの重要なテキスト・ブックとなったのは日露戦争以後である。
 問題なのは東洋協会での座談会に出席した知識人が、永雄を含め、満洲を「インド」とは見なさず、むしろ北アメリカと見なしたことである。つまりシーリーの日本の読者が満洲と北アメリカを重ね合わせたとすると、シーリーの言説は300万人以上の漢族を始め、様々な北方諸民族の住んだ満洲を「空っぽ」にしてしまう。満洲のこのイメージ、つまり人間の住まない広大な大地をつくりあげるのに、翻訳されたシーリーの著書はひと役買った、というわけだ。
 ここで私が言いたいのは、満洲国も又、翻訳文化の上に成りたっていた、いや、成り立っていたはずだ、ということである。治めるべきは、日本人ではなく、中国人であった。そして「五族協和」というスローガンが実行されるためには、朝鮮族、蒙古族、ロシア人、その他満洲に流れこんだ様々な民族、国籍の人々を彼らの言語を通じて治めなければならなかったはずだ。

満洲の様々な言語空間
 そうならば様々な疑問がおこってくる。たとえば満洲国の建国宣言は何ヶ国語に翻訳されたのだろう。そして日本語から中国語への、あるいは朝鮮語やロシア語への翻訳は意識的にも無意識的にも、ゆがめられる、ということがなかったのだろうか。そして新たに翻訳された文章の意味がゆがめられる、ということはなかったのだろうか。
 帝国時代の満洲の研究はそれぞれの学者の言語的バックグラウンドのため、どうしても制約を受けてしまう。アメリカで日本研究にたずさわる者が満洲に目を向ける時、読む文書はほとんどすべて日本語の文献である。その内容が満洲に住んだ日本人以外の様々な民族集団にどう伝えられ、どう解釈されたかには注意を払わない。しかしこれが従来の満洲研究の主流であった。
 我々日本研究者にできることは、そして願わくは本書の読者にできることは、満洲の様々な言語空間に入りこんでみる、ということであろう。本書の原著は英文であり、本書はその日本語への翻訳版である。しかし原著の英文は、単なる英文というわけではなく、それは又、帝国時代の満洲で使われた様々な言語の翻訳が入りこんだ英文なのである。こうした様々な言語が、少なくとも「意識的に」意味をかえて翻訳されるということのない時代に生きている我々は、帝国時代の翻訳文化の中で生きた人々に比べて、はるかに幸せだ、と考えざるを得ない。満洲の様々な言語がつくりあげた豊かな空間、そしてそれ故におきた悲劇の一片を少しでもお伝えできたら、と思う。

(たまのい・まりこ/文化人類学)