2008年02月01日

『機』2008年2月号:「イスラームvs西洋」の虚構 エマニュエル・トッド(聞き手=イザベル・フランドロワ)

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日本の読者へ
――この本がどのような論争のきっかけになって欲しいと、お考えなのですか。それから、日本の観点が重要であるのはどのような点においてなのですか。


 この本の目的は、人類がいくつかの部分に分割されているとする見方を拒否することであり、とりわけ本書は、現在定着しつつある、近代性とは西洋固有の事柄であるとする一種西洋主義イデオロギーともいうべきものと闘うものです。このイデオロギーはもちろん、西洋の対極にイスラームを置き、人類の中のイスラームという部分には、近代化の能力もなければ、民主主義を実現する能力もなく、発展の能力もないとするのです。
 それに対して本書は、イスラーム諸国とキリスト教系の諸国との間に存在する差異は、本質的な、本性上の違いではなく、時間的ずれに由来する差異であることを示そうと努めています。イスラーム諸国に大きな遅れがあることは明らかです。
 日本についてですが、日本は近代性の観念をヨーロッパの独占から救い出した国ですから、日本もしくは日本的観点はこの論争の中で重要な役割を果たします。ヨーロッパからは、日本という国は常軌を逸脱した存在と見られていました。日本の発展への努力は、一時は憫笑を誘ったものです。日本はヨーロッパ諸国と同じように移行期危機を経験しましたが、あくまでも外の国として扱われました。
 現在、現段階においては――この点は本書の中で記しましたが――日本の近代性に異議を唱えようとするものは誰一人いないでしょう。日本の近代性は単なる西洋化にすぎないと言う者は、いないでしょう。誰にとっても、日本は近代的でしかも日本的である、というのは明らかです。日本は日本のままであっても、なおかつ日本の民主主義的制度機構が存在すること、日本の科学技術能力の優れていることに、異議を唱える者はだれもいないでしょう。

――それではあなたは、日本人に何を期待されるのですか。


 日本に対する私の態度は常に同じです。つまり私個人としては、日本がもっと論争に介入して発言してくれるのが好ましいのです。だからと言って、発展という観点からは全体として非常に遅れているイスラーム圏を、日本と類似した存在として示そうという積りではありません。そんなことは全く考えられません。そうではなく、日本人は、論争に介入して、西洋人――つまり欧米人――に対して近代性は彼ら西洋人だけのものではないということを「思い起こさせる」のに、とりわけ絶好の立場にある、と思うのです。西洋以外にも、発展し、近代化する能力を有する大文化がいくつもあり、それは西洋の色あせたコピーであるに違いないなどと考えざるを得ないいわれは少しもないのです。

――あなたは日本とは特別な関わりがあるようにお見受けしますが。


 私が特別な関わりを持つ国というのは、実は二つあります(あくまでも個人的なレベルの話で、フィールド・リサーチや特殊な知識のレベルで関わりがあるわけではありません)。一つは日本で、これは私が行ったことのある国です。もう一つはイランで、私は行ったことはありませんが、大勢のイラン人と議論をするに至った経緯があります。
 日本とイランは非常に異なります。気質も違います。しかし私のフランス人としての観点からすると、この二つの文化は、非常に古い文化であり文明でありながら、近代化の過程を歩み始めた文明なのです。この類似にはしばしば心を打たれました。

日本の読者へ
――この本の基盤をなす命題は、不安を取り除くことを目標にしているわけでしょうか?


 私にとって明らかになったことは、本書は天使のような本では全くないということです。イスラーム圏ではすべては素晴らしい、などと述べる本ではないのです。本書は、危機の存在を否定しませんし、暴力の存在も否定していません。単に、その危機は正常な移行期危機であると言っているのであり、西ヨーロッパ諸国でも、ロシアでも、中国でも、日本でも、その危機と同じようなものはかつてあったのだ――日本は軍国主義という危機を経験しました――と言っているのですから、その意味で本書は天使のような本では全くありません。
 しかしまた、その最も根底的な命題である、文明の対話というのは、それぞれが神へと至る特別の道に他ならない宗教と宗教の出会いを意味するわけではないとする点でも、やはり天使的な本ではないわけです。宗教それ自体は現実の衝突要因を抱えていません。
 本書の最も根底的な命題は、イスラーム教は、キリスト教と同様に、俗世間の非宗教化と信仰の消滅にまで行き着くことができる、というものです。そしてそのことを理解するのに、日本人は最適な立場にあると、私は考えます。日本はかつて数世紀にわたって非常に仏教信仰の盛んな国で、活発な宗教的意思を持っていましたが、今では完全に「脱仏教化」しています。宗教への無関心というもの以上に、日本人とヨーロッパ人を近づける共通点はないのです。
 これは本書の中に直接記されていることではありませんが、私としては言い添えておきたいと思います。それは、本書はイスラームについて楽観的で、人々の不安を取り除き、不安を静めるような本であろうと努めている、ということです。イスラームはその移行期危機の中にあるのであって、テロリズムや暴力といったことは、すべて過去に起こったことなのだ、そしてテロリズムの問題の解決は、警察の捜査やシークレット・サーヴィスの有効な活動の中に見出されるのであって、イスラーム圏の核心部に攻撃を仕掛けることの中に見出されはしない、こうしたことを本書は言っているのです。

西洋それ自体の病
 しかし最近はもう一つ別のことが出て来ました。例えばフランスのような国で、イスラームに対する不安はやはり誇張されています。われわれはテロリズムが猖獗を極める世界に暮らしているわけではありません。毎朝パリでメトロに乗るのは、テロ攻撃の恐怖におびえながらだ、というわけではありません。ある意味で危険は全面的に過大評価されているのであり、世界の現実は、9・11なのではないのです。世界の現実とは、イラクにアメリカ軍部隊がいるということ、イスラーム諸国が攻撃されているということです。ですからイスラームに対する懸念というのは、やはり誇張されているということになります。
 そして私は、フランスの非宗教性への強迫観念について考え、イスラームは非宗教性とは相容れないとする主張についてじっくりと考えた末、ついに次のような結論に到達したのです(これについては私は何も記しておりません。本書の中には一切触れられていません)。すなわち、イスラームをめぐる強迫観念の一部は、イスラームそれ自体とは何の関係もない、ということです。もちろんイスラーム圏は、脱宗教化が深層で進行しているにしても、まだまだ神への信仰が健在の地域であることは、間違いありません。
 しかしイスラームに対する強迫観念の一部は、西洋そのものの危機と関係があるのです。つまりヨーロッパ人は、宗教的信仰なしの状態で生きようとする段階に到達しました――アメリカ人は宗教的言辞において多弁ですが、この点ではヨーロッパ人と大した違いはないと思います――が、グローバリゼーションという経済的コンテクストによって、山ほど積み上げられた問題を突きつけられているのです。そしてどうやら何かしら、イスラームとは関係がないけれども、あまり上手くいっていない西洋それ自体の病と関連することが、どこかでうごめいているような気がするのです。

(Emmanuel Todd/歴史学者)