2007年12月01日

『機』2007年12月号:農村の男性はなぜ結婚できないのか P・ブルデュー

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●“社会学者ブルデュー”誕生の契機となった農村社会学、ついに刊行!

  旧社会にあって結婚は、とりわけ家族の関心事項であったのに対し、今日では結婚相手探しは個人のイニシアチブにゆだねられている。より良く理解されなければならないことは、僻村集落の農民が、なぜ、この競争において根底的に不利なのかということである。より正確に言えば、ダンスパーティーという、両性間の出会いの制度化された機会において、なぜ農民は不適切で、狼狽したような態度をとってしまうのか、ということなのである。
 男性社会と女性社会がはっきりと区分されており、また仲人もいなくなり、伝統的な社会的紐帯が弛緩してしまったので、町場集落や近隣の村で定期的に開催されるダンスパーティーが、社会的に是認された、唯一の男女の出会いの機会となった。

彼らは踊らない
 クリスマスのダンスパーティーが、とあるカフェの奥のホールでおこなわれている。明るく照らし出されたフロアの中央で10組ほどのカップルが流行りの曲に合わせて踊っている。主に「学生」である。大半はこの町の出身者だ。兵隊もいる。工員や店員ら都会の若者もいる。ブルージーンズと黒革のブルゾンを身につけている。チロリアンハットを被ったのもいる。娘たちのうちには辺鄙な集落から出てきた者もいるが、着ているものも身のこなしも、県都ポー市でお針子や女中、店員として働いているレスキール出身の娘たちと少しも違わない。同性と組んで踊っている娘たち、少女たちもいる。少年たちは踊っているカップルの間で追いかけっこをしたり取っ組み合ったりしている。
 フロアの周縁につっ立って暗い塊をなしている一団の年長の男たちが押し黙ったまま見物している。全員30歳前後。流行遅れのくすんだ色の背広を着、ベレーを被っている。ダンスの仲間入りをしたい誘惑に背中を押されたかのように少しずつ前に進み出て、踊り手たちが動く空間を狭めていく。独り者が皆、そこに揃っているのだ。同年輩で結婚している者はもうダンスパーティーに来ない。
 クリスマスや元日のダンスパーティーでは、独り者たちは何もすることがない。クリスマスや元日のダンスパーティーは「若い連中」、つまり結婚していない連中のためのものなのだ。独り者連中はもうその歳は過ぎている。「嫁の来手がない」連中なのだ。そのことを自分でも知っている。踊るためのパーティーなのに、彼らは踊らない。

文明のショックの舞台
 田舎の小さなダンスパーティーが、まさに文明のショックの舞台となる。このパーティーを通じて、あらゆる都市的世界が、その文化モデルと音楽、ダンス、身体技法とともに農民生活に侵入してくるのである。祭りの行為の伝統的モデルは消失していたり、あるいは都会的なモデルに席を譲っている。他と同様、この領域においても、イニシアチブは町場集落の人にある。その名前においても、また、そのリズムや音楽、それに伴う歌詞においても農民的な痕跡をとどめていた旧風のダンスに、町場集落から持ち込まれたダンスが取って代わったのである。なお身体技法は文化的コンテキスト総体と関連した真のシステムをなしていることを認めなければならない。この「慣習的行為」(ハビトゥス)こそが、農民を愚直な者として提示しているのである。民衆による観察は、ステレオタイプな見方の基礎となっているこうした身体的行為(ヘクシス)を完全にとらえている。農民のハビトゥスを真の総合的な統一体としてうまくとらえる都会人による批判的な観察は、行為の緩慢さと鈍重さを強調している。なるほどこうした都会人の観察は、真の人類学的観察ではない。しかしながら一方では、都会人の素朴なエスノグラフィーは、システムの要素として身体技法を捉え、行為の鈍重さと服の仕立てのまずさ、表現のぎこちなさとの間に、意味レベルにおいて相関関係があることを暗黙のうちに提起しているのである。また他方でこのエスノグラフィーは、農民に特徴的な身体的行為のシステムの統合原理(直感によって混合したままとらえられる)が見出されるとすれば、それはリズムのレベルにおいてである、ということを示してくれるのである。結局、旧来のダンスがあらゆる農民的文明と関連していたように、現代のダンスは都市的文明と関連しているのである。つまり、新しい身体技法の導入を要請することによって、この新しいダンスは、まさに「自然」の変革を要求するのである。というのも肉体的「ハビトゥス」は、最も自然なものとして体験されており、意識的な行為が捉えられなかったものだからである。独身者の66%は踊れない(それに対して既婚男性は20%)。しかしたとえ踊れなくとも、彼らの3分の1がダンスパーティーにやって来るのである。

農民化された身体の自覚
 そのうえ「振る舞い」は、経済的・社会的条件の象徴として、即座に他の者、とりわけ娘たちに知覚されるのである。要するに、肉体的「ヘクシス」は、何よりもまず、社会的な刻印なのである。おそらく、このことはとりわけ農民にあてはまる。最も現代世界に開かれた農民でさえ、またその職業活動において最もダイナミックで革新的な農民でさえ打ち消すことができない残滓、それこそ、「農民的な身のこなし」と呼ばれているものなのである。
 ところで、男女間の関係において、それ自体としても、また社会的な「刻印」としても、最初に知覚されるのが肉体的「ヘクシス」全体である。たとえ少しでもぎこちなかったり、無精ひげが生えていたり、みっともない身なりをしていれば、農民は即座に「ふさぎの虫にとりつかれた、不器用な、気むずかしい、時には、下品な、女にたいしてつっけんどんな」、社交的でなく無愛想なフクロウと見られてしまうのである。そのような農民について言われているのは、n’ey pas de here、という表現であり、「やっこさんは、市場向きじゃないね」(市場に行くには、上等な服を身につけなければならない)、つまり、人前には出せない、ということなのである。このように、その文化教育全体を通じて、娘は、身のこなしや態度、身なりや振る舞い全体に対して、とりわけ注意深く敏感なのである。彼女たちは、都市的理想をより受け入れやすく、男性を異邦人の視覚から判断するのである。こうした基準からすれば、農民たちはまったく無価値なのである。
 こうした状態におかれた農民は、たとえ単純なステレオタイプ化された見方であるにしても、他の人々が農民について抱く農民イメージを内在化するようになる。彼は社会的な刻印によって印を付けられた身体として、つまり、農民的な生活に結びついた振る舞いや行為の痕跡を引きずった農民化された身体として、自らの身体を認識するにいたる。さらに彼は自らの身体を持て余し、これに当惑してしまうのである。彼が自らの身体について惨めな意識を持つのは、彼が自らの身体を農民のそれとして認識しているためなのである。また彼が、自らが農民じみた農民であるという意識を持つのは、彼が自らの身体を農民化されたものとして理解しているからなのである。自らの身体の自覚が、彼にとって、農民的条件を自覚する特別な機会をなしていると言っても、決して言い過ぎではない。
 自らの身体に関する惨めな意識は、(都会人とは異なり)農民を自分の身体から切り裂き、内向的な態度にさせる。こうした態度こそが臆病さとぎこちなさの根源にあり、彼にダンスを禁じ、女性の前で単純で自然な態度をとることを禁じる。結局のところ農民は、自らの身体に当惑しているために、我を忘れさせ、自らの身体を衆目にさらすようなあらゆる機会のなかで、気詰まりやぎこちなさを感じてしまうのである。ダンスの場合のように、自らの身体を衆目にさらすことは、自分の感情を表に出すことを受け入れ、自ら他人に提示する自己イメージに満足していることを前提としている。それとは逆に、嘲笑されるのではないかという危倶や臆病さは、自我とその身体についての鋭敏な意識に結びついており、その身体性に当惑した意識に結びついているのである。ダンスをすることに対する嫌悪は、農民性についての鋭敏な自覚の表れでしかなく、こうした農民性の自覚は、自分自身に対する嘲笑と皮肉のなかにも現れているのである。とりわけ、その不幸な主人公たる農民が、たえず都市的世界と一悶着を起こしているような滑稽話の中で、こうした農民性の自覚が見られるのである。

(須田文明訳)