2007年10月01日

『機』2007年10月号:阿修羅のごとき夫なれど 本田節子

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●妻愛子の視点から、愛子と蘆花の関係を描くノンフィクション。

蘆花の妻、愛子
 原田愛子(1874-1947)が生まれたのは[熊本の]県北、海遠い山間の盆地菊池。徳冨蘆花(1868-1927)が生まれたのは県南の水俣、それも鹿児島県境の不知火海の海辺。同じ豪家、同じ士族、同じ商家(原田家は醸造家、徳富家は酒を中心に生活用品の何でもを売っていた)であっても、徳富家は総庄屋で代官を務めた家だし、父一敬は漢学者でもある。原田家は慶応2年(1866)に醸造を創業、父弥平次は教育を受ける機会がなく菊作りが趣味。二人は土地柄がちがい、育った環境がちがった。
 原田愛子は3人の兄がいる末っ子の一人娘(異母姉4歳で没)である。両親に特別扱いされながら、ゆったりたっぷりの愛情に包まれて成長した。
 徳冨健次郎こと蘆花も末っ子で三男だ(次男、友喜夭折)。弱気の父に甘やかされ、勝ち気の母に心配をかけながら、早熟で、孤独に、兄猪一郎(蘇峰)に殴られ守られながら複雑にゆがんで育った。野人蘆花、孤高の自然児蘆花、蘆花は単純なようで奥底に複雑さを秘めている。

「氷の如きもの」
 梅には梅の、には梔子の香りが添うように、二人はそんな夫婦であった。ちぐはぐであった夫婦が、一心二体ともいえる夫婦になるまでには、多くの紆余曲折があった。殴られ蹴られ当たり散らされた愛子。かろうじて狂気を抑えた蘆花は、それを「徳冨健次郎は9分9厘は狂に近づくことはありとも、最後の1厘彼を狂了せしめないであろう。彼の奥底には、冷干氷の如きものあり。(大正7年7月5日記す)」と書く。
 「氷の如きもの」を守ったのが愛子である。そのために愛子は自殺未遂するほどの苦しみを何回も味わう。
 明治38年夏の富士山頂での蘆花の人事不省。5日目に目覚めたことを、神に選ばれたと確信する蘆花は、心身の清浄を願う。そのための懺悔、告白。このとき、愛子が14、5歳での処女喪失、つまりレイプを受けたことが語られる。蘆花は10歳までの女性関係を含めて結婚後のそれらをも語る。

修羅を栄養に替える要素
 蘆花作品の多くは、愛子がいてこそ生まれたとさえいえる。作品が書けないときの蘆花の苦悩は、彼から狂気をも引き出し、その大方は愛子に向けられた。もし愛子がいなかったら、蘆花は多分狂死していたろう。狂気がさせたは半端ではない。その凄まじさが並でない夫婦を誕生させた。なのにこれまで愛子が書かれることはなかった。
書かれなかったことの第一は、蘆花作品の弱さであろう。蘆花作品に小説は少なく、作品の多くは、旅行記であったり、告白文学である。次に日本の封建制、つまり、男尊女卑の思想がある。とくに熊本はそれが強い。女の支えで男は仕事ができた、とは認めたくないのである。
 たとえ何があっても、妻は夫の陰にいて夫のために尽くすのが当たり前の時代である。愛子は気むずかしい夫に仕えて、それを立派に成しとげた。彼女は修羅を生きた。なのに愛子を知る人々の話からは、その傷も陰もなかったようである。いやなかったとは思えない。多分あったのだ。それを愛子は心のひだにかくしてしまい、むしろ栄養としたのかもしれない。でなかったら人々が語る晩年の愛子像の、清浄さ、しなやかさ、気丈さを芯とした品の良さはなかったろう。
 修羅を栄養に替える要素とは? 愛子の何がそうさせたのか。愛子を書くことはきっと、その根元を捜す旅なのだろう。これもまた修羅だと分かっていても、著者はもう一歩を踏み出してしまった。

(ほんだ・せつこ/作家)