2007年10月01日

『機』2007年10月号:わたしの仕事の本質的要素 ピエール・ブルデュー

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●海外での講演を中心に、社会学的分析とは何かを明快に説く。

 本書の主要な部分はわたしが外国でおこなった講演から成っている。フランスという個別的な事例について構築したモデルの普遍妥当性を外国の聴衆の前で論証するという状況のおかげであろうと思うが、これらの講演でわたしは、これこそは自分の仕事の本質と思うもの(にもかかわらず――その責任はわたしにあるのだろうが――善意に満ちた読者や評者にさえなかなか理解してもらえなかった本質的なもの)、つまり、最も基礎的なもの、最も根本的なものを展開することができたと思う。

一関係論的な科学哲学
 わたしの仕事の本質的、基礎的、根本的な要素と言ったが、その第1は、様々な関係を重視するという意味で関係論的と称しうる科学哲学である。カッシーラーやバシュラールのように、他の問題では立場の違う論者たちが、関係論的な科学哲学は近代科学総体の哲学である、と一致して述べているにもかかわらず、これが社会科学に応用されることはきわめて稀である。それはたぶん、この哲学は社会的世界についての普通の(あるいは似非学問的な)考え方と真っ向から対立するからであろう。社会的世界についての普通の考え方は、個人とか集団とかいった実体的な「現実存在」に執着する。指さすことも手で触れることもできない、そして科学的作業によって獲得し構築し証明しなければならない客観的関係には関心を示さないのである。

二性向的行動哲学
 本質的要素の第2は、行為者の身体のなかに、また、行為者が行動する諸状況の構造のなかに、より正確に言えば、身体と構造の関係のなかに書き込まれている潜在性に着目するがゆえに性向的と称されることのある行動哲学である。ハビトゥス、界、資本といった少数の基本概念に凝縮されるこの哲学、そして、客観的諸構造(様々な社会的界の構造)と身体化された諸構造(ハビトゥスの構造)との間の双方向の関係を礎石とするこの哲学は、社会的行為者、そのなかでも特に知識人が行動を説明する際にごく普通に用いる言語のなかに書き込まれている人間学的諸前提と根底的に対立する(おのれを動かす動機を十分に自覚した自律的個人が明示的に提示する理由によって生み出されたのではない一切の行動や表象を、知識人が、狭隘な合理主義の名のもとに非合理と見なす場合がその最たる例である)。性向的行動哲学はまた、ある種の構造主義の極端なテーゼとも同じく根底的に対立する。行為者をすぐれて活動的・能動的であると見なす(かといって主体に祭り上げるわけではない)がゆえに、行為者を構造の単なる付帯現象に還元することを拒否するからである(そのためにこの性向的行動哲学は、主体主義者と構造主義者の双方から等しく欠陥があるとされてしまうのだが)。性向的行動哲学は、学問的言説に検討抜きで導入された多くの官許概念(「主体」「動機づけ」「行為者」「役割」など)とはじめから絶縁することによって、また、正常に形成されたすべての精神を構成すると思われている、社会的に非常に強力な一連の二項対立(個人/社会、客観的/主観的、など)と絶縁することによって、自己を確立する。

根強い誤解を解くために
 性向的行動哲学の原理と、この原理の実現形態である実践的性向(つまり社会学者の「メチエ」)とを、言説の力だけで、本当に伝達するのは難しいことは分かっている。それどころか、慣習に譲歩して、自分の理論的原理に「哲学」などという名を冠したために、この原理が理論的命題に変換されてしまう危険があることも分かっている。理論的命題ということになると当然、理論的討論の対象にされる。その結果、ひとつの方法を構成するところの、恒常的かつ統制された行動と思考の仕方を伝達する作業に新たな障碍を作り出す余地を与えてしまうことになる。それでも敢えてわたしは願っている。本書が、わたしの仕事に対する最も根強い誤解を解くことに役立つことを。こうした誤解のうちには、内容空疎な同じ異論を、意図的・非意図的な不条理な還元を倦むことなく繰り返すことによって、ときとして故意に維持されている誤解がある。たとえば、「全体論」「功利主義」といった非難である。また、読解社たちの分類的思考、あるいは見習い著者たちの性急な還元主義が生み出した、決めつけ的なカテゴリー化というのもある。
 実に多くの知識人が、社会学的分析は粗雑きわまる還元主義であると疑惑の眼を向け、また(それが彼ら自身の世界を直接の対象にすると)おぞましいものと忌み嫌う。彼らのこうした抵抗は的はずれな(唯心論的)自負心に根ざしていると、わたしには思える。そのために彼らは、社会的世界を科学的に認識するための第一条件であるところの、人間の行動についての現実主義的な表象を受け容れることができないのである。より正確に言うと、彼らの抵抗は「主体」の尊厳についてのまったく見当はずれな考え方に根ざしている。そのために彼らは、行動の科学的分析のなかに、彼らの「自由」あるいは「利害からの超越」に対する侵害を見るのである。

社会学的分析とは何か
 言うまでもなく、社会学的分析はナルシシズムに対して譲歩することはない。それは、なんとしても「余人をもって代えがたい存在」であると自己を考えたがる者たちが擁護する、人間存在についてのいかにも独りよがりな考え方ときっぱりと絶縁する。また、言うまでもなく、社会学的分析は、社会的存在としての、すなわち個別的存在としての、自己を認識するための最も強力な道具のひとつである。この自己認識の形態のうちに「冥府への旅」を見、そして「自由の社会学」(ある社会学者はもうかれこれ三○年前にこの名称を使っていた)をそれぞれの時代の好みに合わせて焼き直したものを歓呼して迎える者たちがいる。このような者たちが自分に認める自由の幻想を批判するとき、実は、社会学的分析は自由にアクセスする最も有効な手段を提供しているのである。社会的決定を認識することこそが社会的決定からの自由を獲得することを可能にしてくれるのである。

(Pierre Bourdieu/社会学者)