2007年09月01日

『機』2007年9月号:媒介する性――ひらかれた世界にむけて 河野信子

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●自然界に多様に存在する性のあり方から歴史を捉え直す

媒介の質を担いうるもの
 中間性あるいはグレイ・ゾーンを内部に持つ生命体の性別のなかで、媒介の質を担いうるものは、〈愛〉のみであろう。
 平凡で陳腐でも、愛は真実であるとデイヴィッド・ジェロルドは強調している。人は、自己の非完結性を他者との関係に内化させ、さらに外化させようとする。
 愛は、数千年以前から現代にいたるまで、哲学上の主要な課題であり、文学作品の尽きることのない表現法であり続けた。現代では、自己を実現することにおいても他者を生かすことにおいても高い完結性を持っている愛について語ることを、人は、口ごもっている。時として、「愛」のなれの果てや、恐ろしさの方ばかりに目が行ってしまうこともある。 この度の本において書きつづけて来た、いわゆる「中間の性」といわれる人びとの愛は、生命体のなかに含まれる、事故のように発現されるものであろうか。そうではないはずである。
 つぎにかかげる文章は、人さまざまな愛の起因と渦の様相を前にして、いまだに「知」の領域が示している困惑の風景に言及したものと思われる。


 ――あるクラスで聖書の創世記を読んだあとで、学生たちになぜ「知る」という言葉が性的な意味と認識的な意味の両方で使われていると思うか尋ねたところ、ある男子学生がこう答えた。「わかり切っている! どちらも力を意味するからだ」。すると一人の女子学生がこう反論した。「それは違う。どちらも触れることを意味するからだ」と。

 
 二つの答が両方とも正しいといい切れる学生は、一人もいなかった。
  (E―F・ケラー『ジェンダーと科学』)


 「知る」をめぐるこの両義性は、日本語でも、相変らず混乱の相を示している。ここで男子学生の意見をアンドロゲン過剰といい、女子学生の意見をエストロゲンの横溢というつもりはない。「両方とも正しい」といい切るわけにはいかないのは、双方にみられる「根づき」の欠如であろう。

「知」の前提となる「愛」
 根源に「愛」がなければ、「知」はむなしいものになってしまいかねない。にもかかわらず、知と愛とは対立する方向を持っていると思いこんできた。
 理性と感性、実感派と論理派は、現在では辻で行き会って、別の道を進んでいったと、思い込む場合のほうが多いように思われる。
 しかし媒介する者たちは、辻にとどまることを自らに課している。この辻にとどまることは、意識の内圧を高めることによっても可能だが、生まれながらに媒介の質を担っている中間の性の人びとは、やはり辻のもつ内質を自在に動かし得る場にあるのではと思われる。
 本書を書きつづけるに当って、私は、医学や生理学に深入りすることを避けてきた。生理学的決定論には、いまだに、相反する結論を導きかねないような、モデルの設定がふくまれている。そもそも推論にあたっての、原点の措定からして、多くの省略をなした後に、そこから莫大な計算をして見せるものもある。
 現段階では、遺伝子決定論が幅をきかせている。このなかには、生命体に内包されつづけてきた「超える意志」を無視したものもあり得る。現在までの脳科学では、「超える意志」の存在は感じとっているが、化学物質(遺伝子を構成する)の相互作用には、複雑すぎて対応できていない。さらに、生命体の行動(愛から思弁・直観を経て)については、いくらでも「例外」が出てくる。もはや「例外」とは何かさえもわからなくなっている。
 にもかかわらず、個人の主観によって「例外」とあつかったものにたいする存在の否定・無視・迫害・同情・蔑視・追放・拒否・無責任な好奇心・忌避などは、熄むこともなく続いている。
 ここにある愛の欠如にたいする内省は、平凡でも陳腐でも、大事なものであろう。

(こうの・のぶこ/女性史)