2007年09月01日

『機』2007年9月号:プラスチック・ワードの蔓延 糟谷啓介

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●われわれの日常を浸食する便利で空虚なことば

 プラスチックのように思いのままに姿を変え、人工的で、空虚なことば、それは資本主義と社会主義の対立をこえて、現代社会の根底から発した言語現象である。現代の支配的な言語表現は、たかだか30個ほどのプラスチック・ワードの組み合わせからできている。それをあやつるのが専門家や行政官たちであり、わたしたちの生活世界はこのプラスチック・ワードによって「植民地化」されつつある。プラスチック・ワードは一撃で倒せる敵ではないのだ。ペルクゼンは、わたしたちがおかれた状況を冷静に把握することがプラスチック・ワードの支配から抜け出すための第一歩であると言っているかのようである。

言語における近代批判
 著者自身が述べているように、『プラスチック・ワード』という発想の産婆役となったのはイリイチである。たしかに、ペルクゼンの思考には、イリイチの根源的な近代批判との共鳴がはっきりと聞きとれる。その点からいえば、本書はイリイチの思想を言語の領域で存分に展開したものだといってもよいだろう。
 近代科学批判という側面からいうなら、フッサールによる「生活世界の数学化」批判、ハーバーマスによる「生活世界の植民地化」批判などとの結びつきが思い浮かぶ。とくに後者は、ルーマンのシステム論――「システム」はプラスチック・ワードの代表選手である――との対決から生まれたという点で親近性が見られるだろう。本書で用いられる「植民地化」という概念は、おそらくハーバーマスに由来するものである。
 他方で、オーウェルの『1984年』との類似性もあきらかであろう。オーウェルは、究極の全体主義国家においては、言語を通してひとびとの思考と感情が操作されると考え、不気味な「ニュースピーク」という言語を夢想した。それは極度に単純化、抽象化された言語、歴史が消去され、合理的規則のみによって支配されたことばの怪物である。
 さらに、ドイツ思想に連綿と伝わる「言語批判」の視点が本書の背景には存在する。わたしたちは言語を自明なものとみなしているが、その言語こそがわたしたちの思考を呪縛していることに眼を向け、そこから数々の誤謬や虚偽が生まれることに批判的な反省を投げかけることが「言語批判」の目的なのである。

日本語における問題とは?
 日本語におけるプラスチック・ワードの問題、それは端的にいえば「カタカナ語」の問題である。意味がわからないながらも「新しさ」のアウラ〔物体から発する微妙な雰囲気。ベンヤミンは複製ではないオリジナルがもつものとする。〕をたたえているからこそ愛用されるという点で、カタカナ語はプラスチック・ワードたる資格を十分に備えている。しかし問題は、カタカナ語を日本語に固有の表現にいいかえても、けっして理解しやすくならないという点にある。「アイデンティティ」を「自己同一性」におきかえても、意味がわからないことにはかわりない。
 けれども、はたして日本におけるプラスチック・ワードは「カタカナ語」だけの問題なのだろうか。部品として交換可能で、思うままに増殖し、意味が不透明であるという特性は、むしろ漢字熟語にこそよく当てはまるものではないだろうか。「社会」や「恋愛」が「システム」や「コミュニケーション」のようなプラスチック・ワードではないという保証はどこにもないのだ。だとすると、日本語はすでに100年以上前から「プラスチック・ワード」の問題に直面していたことになる。

(かすや・けいすけ/一橋大学教授)