2007年07月01日

『機』2007年7月号:さまざまな萌芽 辻井 喬

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国家権力が個性を圧迫した戦時
 この巻に収められた作者の個性は、見事なほど異なっている。この点は至極当然過ぎるように思われるが、やはり敗戦前のわが国の近代文学の姿と較べると、そこに戦後文学の一つの特徴があると指摘してもいいのではないか。ということは、国体明徴、教育勅語尊重が文化の基礎と言われた時代、それはちょうど、社会主義リアリズムこそが、わが国の芸術創造活動の方法であると言われていたスターリン独裁時代のソビエトロシアと同じように、ある種の個性は戦意昂揚には負の効果しかないとして圧迫されていたことを物語ると考えられるのである。
 新興俳句を不健全として逮捕した検事が、「花・鳥・風・詠を守ると宣言すれば釈放する」と言ったという逸話は、いかに官憲が「美しい国」を唱えていたとしても、思想表現の自由がなかった時代に、表現の花園は存在し得なかったことを物語っている。その頃、国家権力は抒情の質にまで統制の魔手を伸ばしていたのである。

“解放”の時代
 そうした時代の後に訪れた戦後占領期を、天皇の存在のみを仰ぐべしと強制された国体尊重の時代から、新しく「民主主義・占領目的のみを仰ぐ時代になった」として、あたかも同質で、そのベクトルのみが正反対になったという前提に立って論じることは基本的な誤りと言うべきだろう。そうではなくて、自由主義と民主主義は本質的に、というか原理的、現実的には相反する思想であるが、この二つがあたかも同じ性格であるかのように受け取り得る「幸福な時代」が、このコレクションを一貫している時代的特徴ではなかったかと僕は思う。
 それは一言で表現すれば、体制が変ったのではなく、“解放”の時代だったのである。体制は強制的に変えさせられたのであり「押しつけ体制」なのだから、また変えてもいいのだという主張は、一部の軍国主義者、狂信的国粋主義者のみの主張であった。彼らは国民が敗戦後の変革を“解放”と受取ったという事実に意図的に目をつぶろうとしていたのだ。

新しい時代を反映する文学
 たしかにポツダム政令と呼ばれる禁忌があった。それは占領政策を批判する言論・思想表現・行動は許されないという掟があった。しかし、この掟を表現の自由の抑制と受取る主張は、戦争好きのマッカーサーがポツダム政令を意図的に曲げ、反米的言論という方向へ拡張解釈し、共産主義を名指しで批判し、共産党幹部を逮捕するというような逸脱があっても、この翌年には米大統領の命令によってマッカーサーが罷免されるという、新しい体制の、前時代と異質の性格を頑なに認識しようとしなかった。
 勿論、この時代も、そして今も、満たされていないナショナリズムの雰囲気は存在する。もし平和を大切に考える人たちが、リベラルで民主的なナショナリズムの構築という知的営為を怠るならば、変質した帝国主義の操作によって、また体制の入れ替えが強要されるという危険が現在(21世紀初頭)には存在する。そこでは文学者の感性に基いた知恵が必要とされるのだが、それはさておき、この巻の作品が書かれた時代に話を戻せば、文学者に較べて社会主義との闘争を意識するあまり、民主主義の使者であったはずの占領軍総司令部の思想信条の歪みには目をつぶり、マッカーサーを“建国の父”のように崇拝する言辞を並べたジャーナリズムの低俗性には、問題があったと言えよう。それに較べて、文学者・作家は人々の感性の在り様を追及していただけ、前時代とは違う新しい時代の特徴を正確に反映していたと言うことができそうである。

(つじい・たかし/詩人・作家)