2007年06月01日

『機』2007年6月号:何が「水俣」を表象不可能にしたのか 小林直毅

前号   次号


●メディアの中の「水俣病」を徹底検証し、近代日本の支配的言説の問題を暴く!

「水俣」を語らない言説
 1956年、『西日本新聞』が水俣病の「公式確認」を最初に報道した。その後、患者の発生と死亡者が増加し、発生地域も拡大する。にもかかわらず、当時の有力なマスメディアであった新聞による水俣病事件の報道は、3年以上もの間、全国規模に展開することがなかった。しかし、われわれを驚かせたのは、全国報道が始まる以前に、地元の熊本や九州に向けて、この事件の膨大な新聞報道がなされていたことである。
 一方では、人びとがつぎつぎに病に倒れ、亡くなっていく事件が、膨大な言説となって語られ、描き出される。他方では、そうした事件などなかったかのように、まったく語られない。このような事態は、はたして新聞社の組織上の問題や、報道の視点の在り方、報道現場の問題だけで説明できるものなのだろうか。
 これほどまでに重大な出来事と、それを語る膨大な言説が、なぜ長期にわたって顧みられなかったのか。全国報道以前の、地域向けの膨大な水俣病事件報道に接したことで、「水俣」を語らない、あるいは、語ろうとしない別の言説が垣間見えてきたのである。それは、水俣病事件にニュース価値を見出すことを阻み、一地方の出来事として封じ込めた力ともいえるだろう。ある種の言説の力が、「水俣」を語り、描き出すことを潜在化させていたのではないか。

「水俣」の表象可能性と不可能性
 とはいえ、報道によって語られ、描き出される「水俣」は、それらを読み、見ることで、多くの人びとが知り、経験する「水俣」でもある。限定的な言説が語る「水俣」も、遅れてきた広範な言説が語る「水俣」も、人びとがそれを読むことで知り、経験する「水俣」といえる。愕然とさせられたのは、この読むこと、見ることとしての「水俣」の経験であった。
 水俣病の原因も、とりえた有効な対策も、地域社会としての「水俣」の特徴も、水俣病事件の初期段階から表象されようとしていた。そうした地域社会のなかで抑圧されてきた漁民の姿も、何一つ救済の手を差し伸べられずにいた水俣病の患者とその家族の生活も、あるときには表象されようとしていた。しかし同時に、「原因不明の水俣病」と声高に語ったり、「補償問題は円満解決」と無批判に語ったりする言説が、仄見えていたいくつもの水俣病事件の相貌を抑圧し、排除していく。まさに、語られ/読まれ、描かれ/見られることとしての「水俣」の経験とは、他でありえた「水俣」の可能性でありながら、同時に、それらを抑圧、排除し、ある一定の意味としての出来事へと方向づけ、収斂させていく経験であったのだ。これが、多くの人びとの「水俣」の経験の陥穽なのである。
 われわれも含めた多くの人びとは、たしかに「水俣」を知っている。しかしそれは、水俣病事件のありえたいくつもの相貌を抑圧、排除し、方向づけ、収斂させ、さらに過去の出来事として遠ざけた「水俣」なのである。人びとは、他でありえながら、そうはならなかった「水俣」をあまりにも知らない。「水俣」の何が、表象可能でありながら表象不可能になったのか、そして何が、表象可能な「水俣」を表象不可能にしたのか。

(こばやし・なおき/県立長崎シーボルト大学教授)