2007年02月01日

『機』2007年2月号:鶴見和子の遺した「詩学」とは 鶴見俊輔 篠田桃紅

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鶴見和子の生涯のかたち 鶴見俊輔
 皆さん、よく来てくださいました。和子さんは私より四つ年上でした。
 私がゼロ歳の時から、私を助けてくれました。われわれには腕力の強い母親がいて、私を殴り、柱に縛り、蹴飛ばしたりしました。
 その時、姉は身を挺して母と私とのあいだに割って入り、母を妨げて――というのは理屈をいっても聞かないんですから、私の母親は――、母親を妨げてくれました。
 不思議に母は姉を殴ったり蹴ったりしませんでした。それは姉が子供の時から美人だったからではないかと思います。
 姉は亡くなる直前に、私に向かって、「あなたは私を一生ばかにしていたんでしょう」といいました。私は黙っていましたが、それはどの教室でも優等生にたいして劣等生がもつ気分であって、統計上の事実です。
 その統計を離れて、鶴見和子自身の一生を見ると、それは80年に近い前半生と、10年を越える後半生に分かれると思います。前の80年は世のしきたりにしたがって努力する道すじで、後の10年は長い前半生の実績、蓄積から養分を汲み取って表現する活動でした。こういう生涯の形はめずらしいと私は思います。
 きょうは皆さん、よく来てくださいました。生き残った兄弟のひとりとして、また親族のひとりとして、お礼を申し上げます。
 鶴見和子の晩年の仕事は、藤原書店社長藤原良雄さんの力なくしてはありえませんでした。藤原さんと藤原書店の皆さんに御礼を申し上げます。ありがとうございます。

鶴見和子さん 篠田桃紅
 或る会合。紹介を受けた鶴見和子さんと私、「いつもお着物で……」ふたり同時に同じことばを口にしていました。社会学、またほかの学問にも、かいもく無学な私は、鶴見さんの著書といえば随筆集のような本を拝読していただけでした。そして新聞、雑誌で拝見する鶴見さんの着物姿をいつも「うつくしい」と思っていましたから、初対面、全く自然に出たことばでした。
 それから、お互い外国生活が長かったのにふしぎね、と二人同時に同じことを言いました。そして、私は、このお方と、いろんなことを話したい、と思い、また同時に、もう別に何にも話さなくてもいいのだ、という気もしました。その人との出遭い、93年も生きてきましたが、今も印象深く思い出されます。
 京都にいらしてからは、電話で一度お話ししましたが、お声はしっかりしていらしたし、お話も歌について実に楽しげに語られたので、すっかり安心していました。生き返られた、ただのヒトではない、と私は実感し、頼もしくさえ思いました。実際にその声の張り、お話ししたことの内容の確かさは、私は「本当に生き返られたのだ」と感動しました。生き返る、という不思議なこと、そういう不思議が不思議でなく思われるひと、そういうおひとでした。生き返られた時、正直私はあっさり、ああそうかも、と思いました。鶴見さんならあるかも……と思いました。生き返る、という、とんでもないことが、お似合いなんです。天稟なのです。あの方の生き方の延長線上の、サラッとしたこと、とも思えます。何しろ人もうらやむかっこいいひと、でしたから。老いた私などには「メソメソしないで」といわれそうです。 本業の社会学のほかに、歌も作り、踊りも本格、エッセイもどんどん書かれ、それぞれ一家の風格、正面から打ち込まれるひたむきさ、その生きる姿が、私には世にもうつくしいもの、と思われ、また羨ましい限り、亦天性に、ひとを力づけるものを持っていられました。
 亡くなられて日が経つにつれ、失われたものの大きさがわかってくる、そんな口惜しさが深まる日々、残された著作を、読み返し、その中の、永遠に生き生きした和子さんとお話ししています。