2006年12月01日

『機』2006年12月号:「人びとに『未来』などない。 あるのは『希望』だけだ――。」 イバン・イリイチ

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●現代文明を根底的に批判してきた二十世紀最後の思想家の遺言。


 この二十年間に世界中で進行した収入格差の二極化を思ってみて下さい。アメリカ合衆国においてばかりではありません。はるかにもっと暴力的に、世界規模で生じているのです。わたしは最近ある報告書を見たのですが、それは世界のもっとも金持ちの三百五十人の収入が、世界中の下層の六五パーセントと同じであるという事実を信じさせるに十分なものでした。そしてこのことでわたしがもっとも心配になるのは、不均衡そのものではありません、そうではなく、この六五パーセントが、もし金がなければ、もはや生存を営むことができないという事実なのです。三十年前ならば彼らは貨幣に頼らずに生活できました。当時はまだ、多くの事物が通貨の支配下に入っていませんでした。サブシステンスはまだ機能していたのです。今日、彼らはバスのチケットを買わないことには、移動もできません。薪を集めて台所で火をくべることもできず、電気を購入しなくてはなりません。この途轍もない悪をどう説明したらいいのでしょう。
 この問題は、わたしが前に述べた想定から始めたなら、まったく新しい観点で見ることができるのではないかと言いたいのです。つまり、福音が制度化され、愛がサービスの要求へと転倒されてしまうとき、わたしたちの前に立ちはだかっているのは、尋常な悪なのではなく、あの最善の堕落という最悪の悪なのです。キリスト教の最初の幾世代は、ある神秘に満ちたタイプの――何と呼べばいいのでしょう――倒錯というか、非人間性というか、拒絶といったものが可能になったことを認識しました。「悪の神秘」という彼らの観念は、わたしが今、直面し、言葉を見いだせないでいる悪を理解する鍵を与えてくれます。少なくともわたしは、信仰をもつ人間として、この悪を神秘の背信、あるいは、福音書のもたらしたある種の自由の倒錯と呼ぶべきでしょう。
 もうひとつ別の具体的な例を取りましょう。わたしは今朝、今わたしが語っている愛の倒錯のことを思い出していたのです。メキシコの村に住むある男のことです。その腎臓はボロボロになっていました。テキーラのせいです。土地の医者は、われわれが君を助けられるのは、新たな腎臓を提供するか、腎臓透析だけだ、と言います。彼らはその男を連れ去りました。彼はその後ほどなく、家族から遠く離れた病院で惨めに死にました。しかし腎臓透析や腎臓移植の必要性は村中に注ぎ込まれました。金持ちには与えられる特権が、貧乏人には除外されるいわれはありません。わたしは鉛筆と紙を手に、メキシコの状況をよく知る人間と一緒に机に向かって計算したものです。その計算結果たるや、あの憐れな飲んだくれの最後の数ヶ月に掛かった費用が、今、腎臓透析を必要としている人々が生活している施設を四十二個も購入できる価格に等しいということでした。わたしたちの主要な教会が一つとして、こんな儀礼、神話を作り出すこのような儀礼を咎めることができないのはなぜなのでしょう。これはキリスト教徒として、多少考える力を持つ人間として、研究者として、あるいは献身的な医師、あるいは看護師として、おめおめと関わっていてはならないことです。わたしの考えでは、そんなことになるのは、人々があの悪の裏面を直視せず、それが深い意味においては、自由とは反対のやり方であることがわからず、その結果、それをただの混乱と見なすからなのです。彼らは何をすべきなのか、どう反応すべきなのかを知りません。
 わたしは自分がこの新たな悪に対してアンチ・キリストという恐るべき教会用語を使うとすれば、原理主義の伝道者と誤解されるリスクを冒しているのは承知しています。わたしは単純に罪について語ればよかったのかもしれません。しかしわたしは、罪という言葉を使えば、自分が言おうとすることはもっと確実に誤解されるだけだと怖れたのです。わたしが言おうとしていることを理解しようとする多くの人々が感じるにちがいない極端な困難に、じかに面と向かいましょう。この困難は、パウロがあのテサロニケ人に宛てた手紙で意味しようとしたのがどんな人のことか、あるいはどんな権力のことなのかをめぐる深遠な思弁の中に横たわっているのではなく、罪という、見たところ何の変哲もない観念を把握することの中にあります。罪とは、人間が自由にできる選択、個人的な選択、日々の選択として存在していたようなものではないのだとわたしは思います。それはキリストが、わたしたち人間同士が、互いに他者の中にあの方と同様に贖われてあるのを見る自由を与えて、はじめて存在するものなのです。互いに顔を見合わせる新たな道、わたしが以前、使った言い方をすれば、ラディカルな愚かしさでもある愛の新たな可能性の開始によって、ある新たな形態の背信もまた可能になったのです。あなたの尊厳は、今やわたしに掛かっており、わたしたちが遭遇し、わたしがそれを行動に移すまでは潜在的な存在のままです。あなたの尊厳のこの否認、それが罪なのです。わたしの忠誠を求めているあなたに反応しない自分が、そのことによって個人的に神に背いているという観念が、そもそもキリスト教とはいかなるものであるかという理解にとって根本的なものです。
 オーケー、わかった、とあなたは言うかもしれません。だったらなぜ単純に「罪」と言うだけにして、空想をどっさり詰め込んだアンチ・キリストなどといった原理主義者的でもあれば、聖書的で、教会じみてもいる観念を持ち出すような手間は省かないのかと。たぶん、そうもできたでしょう。しかし、わたしは最初に、罪という言葉の現代風の使い方に結びついたいくつかの困難を取り除いておきたいのです。わたしが理解する限りでは、わたしの生きている世界は善きもの、善に対する感覚を喪失しています。わたしたちは、世界は、事物が互いにするから意味をなすのだということ、目は日の光を捉えるために作られたのだということ、そしてそれは、この視覚的効果をたまたま登録する生物学的カメラではないというような自明の確実性を喪失しています。わたしたちは、有徳な行為とは人間に適合するものであり、ふさわしいものであるという感覚を失っています。わたしたちはそれを、十七世紀の終わりに差しかかった時期から、十八世紀、十九世紀と時の経つうちに、価値という観念と経験の増大と共に失ったのです。善は絶対的なものです。光と目はただ単にお互いのために作られ、この疑問の余地のない善は深々と経験されます。
 しかし一旦、目はわたしにとって価値がある、なぜならそれはわたしに見ることを可能にし、世界の中で方向を選んで位置を決めるのを可能にするから、などと言ったとたん、わたしは新しい扉を開いてしまったというべきなのです。価値はポジティヴであるかもしれないし、またネガティヴであるかもしれない。わたしが哲学用語で、価値を口にした瞬間、わたしはそこから価値が二つの方向に上昇したり下落したりするゼロの存在を仮定しています。価値観念で善を置換することは哲学で始まり、それから、永遠に成長を続ける経済学的領域で姿を現します。この経済領域でのわたしの生活は、自分にとって善いものを追求するというよりは、価値の追求になるのですが、わたしはもはや誰かある別の人間になってしまいます。それ以外にはありえません。
 いま、わたしが話している伝統のなかでは、罪は、悪をもっと精密に理解することを可能にします。悪は善の反対です――それは非価値であるとか否定的価値とかではないのです――そして罪は悪の神秘の側面であり、サマリア人の譬え話を例に示された、新たな自由の光を照らしてのみ理解できる、神に対する人間の違反なのです。しかし、もしわたしの言うことが正しければ、善悪の観念を価値と非価値で置換することが、それまで罪を根拠付けていた基盤を破壊したのです。なぜなら、罪は非価値と結びつけることはできません。そして、このことが、ただ、自分たちの罪深さ、自分たちのしていることが、福音に提示された新しい自由とは直接、正反対のものであるということを理解する人々によってしか現代の恐怖は把握されないという考えを、人から人へ伝えることを不可能にしてしまったのです。

(Ivan Illich/思想家)