2006年11月01日

『機』2006年11月号:転勤の歳月 山田洋次

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◎初めてその全体像を描く!


 父親は蒸気機関のエンジニアで、満洲のあちこちの都市を転勤しながら暮らしていた。ハルビン、関東軍総司令部のあった長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)、そして大連など、どの都市も記憶は鮮明に残っている。
 街路樹と石畳とロシア教会の街ハルビン。白系ロシア人の建てた家を満鉄が強引に買い上げて社宅にしたのだろう、大型の壁ペチカのある家に畳の部屋はなくて、ぼくたち家族は西洋人のようにベッドで寝るまでは靴のままで生活していたものだ。街を歩けば眼につくのは背の高い金髪のロシア人か日本人、まるで北欧の都市のようにお洒落でエキゾチックで、その街外れの七三一部隊で世にも残忍な殺人が行われていることなど夢にも思わなかった。
 瀋陽の機関区に勤務していたときは、父親にせがんでしばしば機関庫を訪れたものだ。お目当てはむろん特急「あじあ」号。一二三等車、食堂車、荷物郵便車などの六両編成、機関車から一等展望車まで濃いグリーン色でまとめられ、車輪部分には現在の新幹線と同様のスカートをはいたスマートな流線型、自動ドア、空調完備。最高時速一三〇キロ、長春―大連間七〇一キロを八時間半で突っ走るこの超特急は満洲の少年たちの自慢だった。そして当然のように「あじあ」は日本人の列車であり、中国人(当時は「満洲人」といったが)がこの贅沢な列車に乗るなんてと考えていたし、中国人にはとても乗れない料金でもあった。そして、客車を掃除したり、機関車の石炭ガラを真っ黒けになって捨てる仕事をするのは中国人の労働者であることに、ぼくたちはまったく考えが及ばなかった。 転勤が多い家庭には家具というものがあまりない。支那カバンといって大人が楽に入れる大型の鉄製のトランクが三個か四個、それに衣類を詰めればそれで終わり。新しい土地に着くと満鉄の貸家具倉庫というのがある。そこに一家で出かけて揃っている中から好きなのを選び、用意された社宅に運ぶのだが、重い家具を汗をかきかき運搬するのは中国人の仕事だった。チップを渡すと丁寧に礼を言う姿を大連で記憶しているが、その中国の青年がいったいどんな思いで、どれほど悔しさを込めて贅沢きわまる満鉄社員の暮らしぶりを観察していただろうか、と想像できるようになるのは、あれから十数年、敗戦後の引揚げというつらい体験を経たあとだった。
 各都市には「満鉄消費組合」というのがあって、満鉄社員は日々の買い物をほとんどここで済ませていた。それは繁華街の中心地に聳えるデパートのような建物で、品物は良質で廉価、社員の家族は通帳を提示して買い物を済ませ、支払いは月給で清算されるシステムになっていた。母親が勘定場に赤い表紙の通帳を差し出すと店員がレジスターのボタンを押し、慣れた手つきで数字を書き込む仕草をよく覚えている。
 敗戦は大連でむかえた。父はたちまち失職、銀行も郵便局も閉鎖だから収入が突如途絶えてしまう。学校もいつ再開されるかわからないといった状況の中でぼくたちが住んでいた煉瓦作りの広い社宅は市政府に接収になる。その通達にきたのは八路軍の粗末な木綿の制服を着て大型のピストルを腰に下げた若い将校だったが、驚いたことに彼はなめらかに日本語を話した。母親がたまりかねて「あなた、どうしてそんなに日本語がお上手なの?」と尋ねると、将校は笑いながら「ぼくは京都大学で勉強しましたから」と答えたのでまた驚いた。何故この人が、遠い中国の奥地から戦い続けてこの街にたどり着いたのだろう八路軍の将校が、京都大学にいたのだろうか?
 その疑問が解けたのは、それから何年もたって、E・スノウやA・スメドレーの著作を読んでからだった。あの将校は、あれから新中国の出発や文革という波乱の時代をどのように過ごしたのだろうか? 今でも存命なのだろうか? 中国に旅するたびにぼくはしきりに彼のことを想い出す。

(やまだ・ようじ/映画監督)