2006年10月01日

『機』2006年10月号:ペナック先生の愉快な読書法 浜名優美

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●人間の暗い内実を鋭く抉りながら、底抜けに明るい浩三の世界!


 毎年、終戦記念日が近くなると、必ずといってよいほど取り上げられる、竹内浩三の詩。
 しかし、浩三の作品を知れば知るほど、彼の天才は戦没詩人の枠からはみ出してゆく。
 それは天衣無縫ともいえる詩の、生命煌めく言葉が、あまりにも魅力的だからである。
 恐らく、二十三歳で命日を与えられていなければ、彼の夢であった映画監督、そしてジャン・コクトーのような多才な詩人にもなっていたのかもしれない。本人も「芸術の申し子」を自覚していた。
 彼は恋愛がほとんど成就せず、「おんなに、たいして、しびれるようなみれんを、おぼえるけれど、それは、それだけのことである」と書き、「墨をすって、半紙に『以伎芸天為 我妻』と書いて、壁にはった。そしたら、涙がぽろぽろと出た。伎芸天とは、芸術の神である」と宣言したりしたのは、失恋の傷手による青春の一コマかもしれないが、戦時中であることを考えれば、半ば本気でもあったろう。「粗食難行のあげくさとる。死人に慾はない。死人が女にだきついたハナシはワイ談でなく、クワイ(怪)談である」――。
 学徒出陣で繰り上げ卒業、入隊が近付き東京を離れる時、「おれ征きたくないよう」とワァワァ泣きながら路地裏に消えた浩三。いよいよ実家から見送られる時、自室で一人チャイコフスキーの交響曲「悲愴」を背を丸めて膝を抱きながら聴き、姉が促すと、「姉さん、こんな音楽、もう 以前、弟がどんなに軍人に不適合であるか知っていた姉が思案して、伊勢選出の大臣の秘書に面会に行くよう説得した時、「一生のお願いだそうですが、こんなたわいもないことに一生のお願いでは、人間が安すっぽく見えて、いけません。(中略)大映の京都の助監督の口があったが、兵隊前なので、ダメでした。ぼくは、芸術の子です」と返事を書いた。
 親友の回想には、「彼は、生れながらにして円光をもっているような善人であり、生れながらの数少ない詩人の一人であった。呼吸をするように、詩が生れ、画ができた」とある。
 誰もが皆、軍国少年になっていた頃、洗脳教育にけがされることのなかった尊い詩人の魂は、ついに詩の中で「日本が見えない」と叫ぶ。当時の言論弾圧の厳しさを考えると、このような詩が生まれ、遺されたことに奇跡さえ感じる。
 戦争の狂気をおそれ、正気を失うまいとしてがけで書かれた詩ゆえに、人間らしさに満ち溢れ、今や、物質主義によって人間性を失いつつある社会にあっては、浩三の詩は足元を照らす光のようにも思われる。
 「生きることは楽しいね/ほんとに私は生きている」とうたう五月生まれの浩三の天真が「赤子/全部ヲオ返シスル/玉砕 白紙 真水 春の水」とまで透徹した境地に行きつくまでの作品を追うと、それは、人類救済の魂のうたのようにも聞こえてくる。

(よしだ・みどり/作家・画家)