2006年10月01日

『機』2006年10月号:水俣病とは何であったか 渡辺京二

前号   次号


●苦海浄土』三部作、遂に完結 要の位置を占める第二部、単行本で刊行!


――『苦海浄土 第二部 神々の村』刊行にあたって―渡辺京二
 『苦海浄土第二部』は井上光晴編集の季刊誌『辺境』に、一九七〇年九月から一九八九年にかけて連載された。『辺境』は中断を挿みながら三次にわたって刊行されたが、第二次『辺境』の刊行状況はほとんど年一冊、第二次と第三次の間には十年の空白があった。一九八九年、第三次『辺境』の終刊によって、連載は十八回をもって未完のままに終り、その後単行本となる機会もなかった。二〇〇四年四月から藤原書店の『石牟礼道子全集・不知火』の刊行が始まり、その第一回配本は『苦海浄土』の第一部・第二部合本であった。この時作者は第二部の最終章「実る子」の後半を書きあげ、三十数年にわたる懸案の仕事にやっと決着をつけたのである。『苦海浄土 第三部』にあたる『天の魚』ははるか以前、一九七四年にすでに刊行されていた。
 このように完成に長期を要したのは、発表媒体の中断によるところが大きかったが、そもそもは時が経過するにつれ、作者の側で執筆に苦渋が伴うようになったのが根本の理由と察せられる。というのは、『第一部』は公害認定から水俣病対策市民会議の結成までの動きを含むとはいえ、基本的には、水俣病がまだ社会・政治問題化する以前、被害民がひっそりと隠れて苦しんでいた時期の状況を照らし出したもので、作者は無名の詩人として、たとえ父親から昔ならはりつけ獄門じゃ、その覚悟はあるのかと雷を落とされることはあったにせよ、自由にその眼と心を働かせることができた。彼女は患者たちを「取材」したのではない。文中にあるように、彼女は市役所職員の赤崎覚氏(作中では蓬氏)に連れられて患者宅を訪ねたのである。「水俣学」の提唱者原田正純氏は昭和三十年代の後半、インターン生として現地検診に参加した頃、たびたび見かける作者をてっきり保健婦と思いこんでいたという。そのように自然に患者家庭に寄り添う姿勢からこの名作は生れた。
 しかし、『第二部』が扱っているのは一九六九年の患者二十九家族の訴訟提起から翌年のチッソ株主総会への出席まで、つまり“訴訟派”の運動が社会からもっとも注目を浴びた時期である。しかも作者はその昂揚期に筆を起したものの、一九七二年には『第三部天の魚』の執筆を開始し、『第二部』の執筆は七三年の訴訟判決ののちに持ち越された。そのとき、執筆を開始したときとは運動の状況は一変していた。
 というのは『天の魚』が扱っているチッソ東京本社占拠は、“訴訟派”とそれをバックアップする市民会議とはまったく違うところから出て来た動きだった。この運動の主体となったのは川本輝夫ら未認定患者たちで、作者が七一年の暮から彼らと心身をともにした次第は『天の魚』に委細が尽されている。チッソ本社前にテントを張ったこの歳月は、作者にとって生涯においてもっとも充実した時期だったのである。
 しかし、この突出した行動は運動内部に様々なきしみを生まずにはおかなかったし、それは作者自身を巻きこんで苦しめることになった。『第一部』が運動以前の無垢のなかで、『第三部』が運動の頂点の輝きにおいて書かれたとすれば、『第二部』は運動が分裂と混乱に陥った時期に、それ以前の“訴訟派”患者のパフォーマンスが最も華やいでいた様態を描写しなければならなかった。それが苦渋のうちに最後の力をふり絞るような力業となったのは当然である。むろん『第二部』は“訴訟派”と支援団体の運動を叙べたものではない。しかし、そのように「運動」などを超え、それを無化するような表現を獲得するためにも、作者はおのれの心眼に映る最も深い世界へ降りて行かねばならなかった。それはまさに作者の命を磨り減らす仕事だったのである

(わたなべ・きょうじ/評論家)