2006年09月01日

『機』2006年9月号:河上肇の自叙伝 杉原四郎

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著者積年の河上肇研究の全成果


東の福田、西の河上
 河上肇(1879―1946)は、戦後になくなったのだから、そう過去の人でもないのだが、彼の存在を知らない人が多くなっている。岩国に生まれ、19歳のとき東大法科大学に入学、経済学を勉強、23歳のとき大学院に進んで社会主義論や農政学の論説を発表する傍ら、社会政策学会に入って、福田徳三と論争を続ける。二人は日本に経済学という新しい社会科学を欧米から導入し、根づかせるために協力。東の福田、西の河上とよばれた。その意味で今経済学を学んでいる人にとって、河上は日本経済学形成の恩人の一人である。河上はアメリカからの経済学導入にとくに熱心で、マルクス経済学の最初の紹介者の一人でもあった。

人道主義的社会政策の実現
 29歳の時、京大の戸田海市の推薦で京都帝大法科大学講師となり、京都へ移転、その後助教授、外国留学、学位を得て教授に昇格、経済原論と経済学史を担当する。留学で社会問題、貧困問題の重大性に注目、帰国後『貧乏物語』を公刊、ベストセラーとなる。本書は今も岩波文庫に入って版を重ねているが、マルクスの社会主義の影響はまだ薄く、河上の立場は人道主義的社会政策の実現であった。マルクス主義に移行するのは40歳で創刊した個人雑誌『社会問題研究』でのマルクス研究への沈潜からである。傍ら、59歳で友愛会京都支部で講演以来、啓蒙運動への参加を決意する。また学生有志と『共産党宣言』の講読会を開始、京大社会主義研究会の創設につなげた。43歳のとき論文集『社会組織と社会革命に関する若干の考察』を刊行、ロシア革命に関する考察を発表、マルクス主義左派陣営の批判をうける。46歳の頃、櫛田民蔵や福本和夫からの批判をうけ、レーニンの『唯物論と経験批判論』によりながら、唯物史観に関する自己清算を行う。傍ら、宮川實との共訳で『資本論』を岩波文庫で発表。『資本論』の系統的研究を本格化させた。

京大辞職、そして下獄
 49歳の時、「既に教授会の議を終て総長より辞職の勧告を受けたる以上、……茲に辞意を決定す」。河上は、総長が示した辞職勧告の三つの理由は「毫も辞職の必要を認めざるものなりとも」、教授会の議に従って辞職した。経済学部同好会・送別謝恩会がひらかれたのだが、共産党を支持する学生が、河上の新労農党支持を非難したので白けた空気であった。 54歳のとき、逮捕されて中野警察署へ連行、後に豊多摩刑務所に移され、「今後の方針」を帝審判事に提出。市ヶ谷刑務所に送られ、7月2日、検事局に『獄中独語』を提出。それは新聞各紙に頒布される。8月1日、公判で懲役七年の求刑、またこの日『赤旗』に河上除名のことが掲載され、8月8日、懲役5年の判決が出る。一回提出した控訴状を取り下げ、9月26日、下獄。1934年1月、「現在の心境」を提出して、今後実際運動には全く関与せず、マルクス主義の研究・邦訳を断念するが、基礎理論は堅持するとのべる。

獄中での「宗教と科学」
 54歳、独房で「感想録」を書くことを許され、「宗教(仏教)と科学(マルクス主義)」についての読書記録として書きのこした。「私ぐらい熱心にマルクス主義を研究した者で、しかも私ぐらい真面目に宗教に対し――真実の宗教に対し恭敬の念を掲げ得る者は、極めて稀であろう」と自負する河上は、獄中で「宗教的真理と科学的真理」をテーマとして書くことにし、57歳の7月、「一マルクス主義者の獄中生活(上篇)」を脱稿、12月に下篇を書き終える。58歳の1月より『獄中贅語』を執筆、58歳の5月、例言、目次を付して当局に提出するが、当局はこれを無視した。やがてこの清書は外部に出て、末川博のはしがきをつけて河原書店から1947年9月に、河上の病死(1946年1月)後、遺著として公刊された。

近代日本文学史上の名作、『自叙伝』
 もう一つの重要な遺著は、やはり獄中で執筆を思い立った『自叙伝』(4冊、世界評論社、1947―48年)である。「幼年・少年時代」から遺言「小国寡民」にいたるまで、「自画像」を中心に心血をこめて書き綴ったこの『自叙伝』は、近代日本文学史にも残る名作であろう。 めまぐるしい時代の変化を生き抜いた明治の青年たちは、一生をふりかえって後世の青年に供すべく、自叙伝を書きのこしている。河上の『自叙伝』と対比されるものとして、福沢諭吉や石川三四郎のそれなどが思いうかぶが、河上のものは文章の冴えという点でも抜群で、『貧乏物語』の筆力は彼の晩年にいたっても決しておとろえていないことは、この長い分量を決してあきさせないことでわかる。 ところで大正時代になると、河上は学界のみならず評論界でも活躍の幅をひろげていったので、河上を同時代の文人と比較してその特徴を論ずる河上肇論が雑誌の特集号として出現したが、河上は『自叙伝』の中で多くの河上論を紹介しつつ、一方では自分の特色をよくつかんで紹介してくれている文章には謝意を表しながら、他面では自分の行動を奇行と説明しているものに対し、それは決して奇をてらうものではなく、あることに心を動かされるとそれを自分のこととして考え、とことん考え抜くところに他人には奇行と見える行動が生まれてくるのであると応えている。家族との生活も仕事もすてて無我苑にとびこむのも、象牙の塔を出て政治という未知の世界に移り住むのも、治安維持法にふれるのをおそれず命をかけて共産党に入るのも、河上にとってはそれより他には考えられぬ選択肢だった。

獄中での生涯河上を支えた妻、秀のこと
 河上の書いたものは一つももらさず読んでいたのは肇の父忠で、河上は発表した文章はすべて父に送っており、留学中の手紙はまず父におくられ、それが家族の間に回覧されることになっていた。 『自叙伝』の中には、肇の弟二人暢輔と左京や、子政男、シズ、芳子らも出てくるが、一番多く登場するのは妻秀である。23歳で秀と結婚した肇は、大学生活を送った頃も獄に入ってからも、秀に愛され支えられながら共に人生を歩んできたことをあたたかい筆致でかきしるしており、肇の一途でひたむきな行動が道をふみはずさないように見守ってくれていることを多としている。裏方の秀が時に重大な機会には堂々と肇とわたり合って、主張すべきはしているところは『自叙伝』の中でも特に印象的な箇所である。肇はマルクスの妻のことを書いた文章で、マルクスの妻が夫のきびしい亡命生活を支え通したことをのべて、この妻あっての夫だったと書いているが、その時おそらく秀のことを思いうかべていたことであろう。4年をこえる長い獄中生活の間、秀は制限で許されている範囲で出来るだけしばしば手紙をおくり、また面会に来て獄中で当局と戦いながら苦しい生活に堪えている夫の激励を惜しまなかった。夫婦の生活を描く『自叙伝』は夫婦一体となっての生活の記録としても人の胸をうつものがある。

獄中生活事情を詳しく活写
 最後に、肇の『自叙伝』のうち、最も興味をそそるのは、やはり獄中の囚人の生活で、彼らの衣食住の生活がくわしく紹介されているところであろう。肇がのべているように、転向をそそのかすために普通の規則からみれば優遇されているのだが、それにしても牢獄というところのきびしさ、とくに思想犯の処遇について書かれている所を読むと、河上がこの場所からのがれたい、家に帰りたいと衷心から願うことを訴えているのは忘れがたい。河上は何がつらいかといって、独房に一人入れられて他人との対話の機会がほとんどない生活を強いられることをあげているのは、おそらく日本の監獄とくらべて囚人の人権が守られている外国の牢獄でも基本的には同様であろう。まさにそこに監獄の存在の本質があるのだろうと思われる。『自叙伝』は治安維持法に死刑が加わってよりきびしくなり、更に保釈後や満期の後もなお行動の自由を束縛するよう改悪された時代に、控訴をとりさげて所定の任期を果たして出獄したという体験に基づく叙述である。 河上の時代にくらべて現在の新憲法下の刑務所はどのように変わったのか、変わらないのか。鈴木宗男氏や堀江貴文氏の獄中生活を報道する新聞を、河上のそれを念頭において読むと、いろいろなことを考えさせられるのである。

(すぎはら・しろう/経済学)