2006年09月01日

『機』2006年9月号:天皇と政治 御厨貴

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●天皇論から近代日本のダイナミズムを描き出す!


天皇の存在をどう語るか
 天皇と皇室・皇族の存在を抜きにして、近代日本の政治を語ることはできない。こう言うと、戦前はまだしも戦後はそんなことはないとの反論にあうかもしれない。しかしそれは、戦後日本がある時期から、憲法改正、象徴天皇、戦争責任といった国家とイデオロギーに関する議論を放棄してきた事実を忘れている。これら三つの問題は、むしろ語ることさえタブー視され、敬遠されてきたと言ってよかろう。
 ところが21世紀に入って、小泉純一郎という特異な前例破壊主義の首相が登場するや、知らず知らずのうちに、以上の国家とイデオロギーに関する問題をたぐり寄せる結果となった。今や、憲法改正、女帝論、戦争責任の三課題は、相互に密接不可分の争点群として我々の前に立ち現われつつある。しかもこれらの問題は、いずれも近代日本の歴史の見方とこれまた不即不離の関係にある。
 もっともこうした天皇の存在は、いわゆるアカデミックな体裁の論文では、到底捉えることが不可能だ。いかにすれば、天皇を論じて近代日本のダイナミズムを描き出すことが可能か。本書は、これまで以上により大胆にかつ縦横に「天皇と政治」をテーマに論ずるものである。

終わらない「戦後」からの脱却の可能性
 第I部は、主として戦前をカバーする。明治国家の完成とその変容を五章構成で展開し、戦前日本のダイナミズムに迫りたい。そこで明治天皇、大正天皇、戦前期の昭和天皇の三人のそれぞれの陰影を感じとることができるか否か。また個々の天皇の存在を超えて、そもそも前近代から連綿と続く天皇なる存在の意味についても考察している。個々の天皇でさえ、すんなりと明治憲法に規定されないとすると、連綿と続く天皇なる存在は非合理的活力をもって、戦前の日本国家の暗部を構成することとなろう。
 第II部は、占領期と、その延長の時代として戦後を捉える。戦後政治の展開の中で、いつしか憲法、講和、安保、そして天皇といったイデオロギーと歴史をめぐる争点は鎮静化し、忘れられた。人はイデオロギーと歴史なくして生きられるか、1970年前後の日本はそんな状況にあったのではないか。
 しかし東京裁判が日本にとっていかに言語道断のものであったとしても、日本は「あの戦争」に敗れたという事実を直視せねばならない。しかも「あの戦争」が帝国主義最後の戦争であったが故に、「戦後」はいまだに終わらないと言える。そして昭和天皇は終わらない「戦後」の中に、晩年くり返しくり返し「戦争責任」の問題を見出し、苦悩し続けたのである。今上天皇夫妻の「祈る」行為がごく自然のふるまいとして受けとめられるのに対し、昭和天皇は余りにも不器用すぎたのかもしれない。
おそらく「左」がことさら強調する「歴史問題」に本当に対応するためには、天皇や国家や憲法の存在を今一度真正面から考え直す他はなかろう。さらに「右」が天皇や国家や憲法のあり方をあくまでも優先させるのならば、「歴史問題」をこれまた排他的でない形で引き受けるしかない。これによって、ある意味、今なお続く「占領」状態の蒙昧から脱却し、終わらない「戦後」に明確に終止符を打ち、日本は新たなステージに立つことになるのだと思う。

(みくりや・たかし/東京大学教授)