2006年06月01日

『機』2006年6月号:乳がんは女たちをつなぐ 大津典子

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信子さんの遺言
 「なあ先生、うちのこと書いてえな」。はにかむような笑顔で信子さんは何度も私に言った。
 私は物書きではない。本職は主婦。その私が、夫のロシア研究に便乗して、1979年末から九一年のクーデター以後も、毎年春夏の大学の休暇をソ連もしくはロシアで暮らした。好奇心だけの主婦の目で見た「モスクワ事情」を、九十年以後一年半ばかりある月刊誌に夫と交代で掲載していた。そんな折に私は乳がんになり、信子さんとは運命共同体の紐帯で結ばれることになった。その月刊誌の愛読者であった彼女は自分の無念を私に託そうとしたのかもしれない。
 「なあ、書いてえな」というたびに彼女の病状は深刻になっていった。彼女は愚痴ひとつこぼさなかったが、その覚悟のほどが伝わるだけにかえって辛かった。私自身が乳がんと向き合うしんどさに彼女の言わず語りのしんどさが加わり、病める心の状態では一通の手紙すら満足に書けなかった。そして思いのほか早く、彼女は何のドキュメントも残さないまま旅立って逝った。彼女の遺言にも等しい私への願いを叶えるすべもなく、ただ重い心のまま時が流れた。

女たちへの大いなる遺産
 そしてもう一人、乳がんからの多臓器転移で命を終えた美しい四十代の主婦がいた。 「信子さんの亡くなった後、私がみんなの励みになるわ」と彼女は言った。地獄の苦しみを味わいながら、彼女は転移の進行状況と医療の対応を正確に乳がん仲間に伝え、変移の様子を自分の身体で教えてくれた。彼女は乳がん仲間のことを、「みんな本当に優しいのよね。人を傷つけるようなことは絶対言わないし、思いやりがあって暖かいの。だから皆といる時だけはほっとする」と言っていた。
 女たちは、いつわが身に訪れるかもしれない再発や転移に怯えながらもとにかく生きている。いや生かされている。女たちは乳がんを生きて、がんは一人では背負いきれない、一人では救われることのない病であることを学んだ。周囲の人のおかげで生かされる病であることを悟るようになった。そしてみんな優しくなった。
 いまは亡き乳がんの友が、進行するがんと向き合いながら示してくれた、最後まで生を貫く毅然たる姿勢こそ、まだ命を繋いでいる仲間やこれから乳がんと向き合う女たちへの大いなる遺産である。私たちは罪の意識にも似た思いで彼女たちの遺産を引き継ぎ、自分やがんを生きる友の生命の神秘を感じている。それはどんな名医も伝えられない生の確認作業である。

各国の乳がん事情
 乳がん仲間たちの深く優しい絆に癒されて、乳がんのショックから立ち直ると、私はふと他の国の乳がんを病む女たちのことが気になり始めた。彼女たちは乳がんとどう向き合い、社会は乳がんの女たちにどう対応しているのだろう。乳がんをめぐる周辺の状況から、異なった文化の社会とそこに生きる女たちを見てみたいと思うようになった。
 しかし、アメリカの乳がん事情はメデイアを通じて多く紹介されていて、日本の医療が米国のそれに軸足を置く限り、日米の治療法にたいした違いはないように思える。それなら情報の入らない旧社会主義諸国の乳がん事情を垣間見ることができないものかと、ロシアやハンガリーの友人たちにその望みを託してみた。そして彼らは見事に答えてくれた。オックスフォードでは、私自身が再発を疑われ、患者として診察を受けた。そして乳がん患者の会に入って、長年の友達であるかのように乳がんを共有した。
 「うちのこと書いてえなあ」という耳に残る声に促されてやっと暗黙の約束を果せることになった。「うち」とは特定の彼女のことであって、彼女だけのことではない。「うち」は、いま乳がんを生きる、また乳がん年齢にある女たちのことである。

(おおつ・のりこ/主婦)
※全文は『乳がんは女たちをつなぐ』に収録(構成・編集部)