2006年06月01日

『機』2006年6月号: 「レーニン神話」を解体 エレーヌ・カレール=ダンコース

前号   次号

 「レーニンの墓は革命の揺籃である」。ソ連邦創設者の埋葬の日、参集した無数の群衆の頭上にはためく数多くの横断幕は誇り高くこのように宣言していた。1924年1月のことであった。
 68年後の1992年1月には、ソ連邦はすでに存在しなくなっていた。共産主義と革命の信用は失墜し、共産主義の指導者たちの像は、台座から取りはずされて公園に転がされ、消え去った栄光の惨めな証人となっていた。しかしクレムリン前の赤の広場の「革命の揺籃」たるレーニン廟には、防腐処理をほどこされたレーニンの遺体が相変わらず眠っていた。それは四分の三世紀にわたって民衆の恭しい崇敬の対象であり、「革命の聖遺物」とスターリンは言っていた。今日では、「最愛の指導者」(ヴォーシチ)の姿を眺めるために民衆が列をなすことはもうないが、レーニンの思い出は人々の意識から完全には消え去っていない。

「レーニンは生きている」
 レーニンが死後にたどった運命はなんとも奇妙なものである。
 彼が実際に権力を行使したのは1917年末から1923年初頭までの極めて短かい期間にすぎず、その後、病のために権力から遠ざかり、一年後にこの世を去った。しかし彼の死に際して、彼の死によって作り出された空白に取り乱したボリシェヴィキの面々は、ロシアの伝統に反し、遺されたレーニンの妻が表明した意志にも反し、そして恐らくは、それが可能であるならレーニン自身が表明したであろう意志に反して、死者に生前の姿を保たせ、そうすることによって彼をして自分たちと共にあるようにさせようとの決定を下したのである。
 レーニンは防腐処理をほどこされ、ガラスの棺の中で巡礼者たちの視線に晒され、ほとんど宗教的な崇拝の対象となった。これは労働者階級の要求に応えることだとボリシェヴィキ党は称した。「われわれが革命に疑いを抱く時、あるいは誤りを犯しそうになった時には、レーニンの姿を眺めに行くだけでよい。そうすれば彼はわれわれを正しい道に立ち帰らせてくれるであろう」。
 その目的は単純だった。レーニンの遺産とレーニン主義――これはこの先達が他界するや否やスターリンが創り出したものだが――を守るためには、レーニンが人間の通常の運命を超越していなくてはならず、従って彼の死は見せかけのものに過ぎなければならなかった。
「レーニンは生きている」。
 これがレーニン死後のスローガンであり、レーニン廟はその言葉の正しさを確証するものであった。

レーニンのみが免れる
 しかし数年後、数十年後には、レーニンの運命はさらに驚くべきものであることが明らかとなる。
 二十世紀は多くの偉大なカリスマ的国家指導者を輩出した世紀であった。彼らは共産主義の名のもとに(スターリン、毛沢東、ホー・チ・ミン、等々)、あるいは共産主義に対抗して(ヒトラー、フランコ、サラザール、等々)、民族の救世主として君臨した。彼らはいずれも死によって沈黙を余儀なくされると、ただちにその台座から転落し、毛沢東の場合がそうだが、霊廟によって今なお政治家たちの「地獄」から守られている者でさえも、自己の功績ならびに業績の仮借なき見直しを免れることはできなかった。スターリンは1953年から1961年までの数年の間、レーニンと廟堂を共にするが、「史上最高の偉人」の地位から「犯罪者」の身分へと滑り落ちた時、容赦なくレーニン廟から放逐されることとなる。
 レーニンのみが、こうした死と時とが助長する偉人の破滅というものを免れたのである。彼は1956年からスターリンが批判された時、それを免れた。そしてまた、1970年代初頭に、『収容所群島』の出版によって、全体主義というソ連邦の真の姿が明らかとなり、ソ連邦に対する非難が堰を切ったように浴びせられた時も、そうであった。さらに1985年以降、ソ連邦と共産主義世界全体において、革命とそれによって樹立された政治システムの時代の幕を閉じようという考えが有力になった時においても同じである。レーニンだけが廟堂の中にあって、1992年までこうした見直しから守られていた。
 今日でもなお、彼が一部の同国人に揮っている魅惑の力は、彼の創設した党への執拗な忠誠となって現れる場合もあれば、奇妙な信仰の顕現という形をとる場合もある。たとえば1992年にキリスト教レーニン主義党が創設された。この党はロシア人に対してキリストの言葉を聞くためにレーニンのもとに結集しようと呼びかける。そのスローガンは「われわれはレーニン主義者であり、キリストの教えを伝える」という奇妙な諸教混合を表明しているが、このことは共産主義死滅の後の精神の混乱を証言すると同時に、レーニン神話が確実に生き残っていることを証言してもいるのである。

レーニンが与えた正当性
 レーニンにのみ見られるこうした死後の運命は、いくつかの異なるやり方で説明がつく。
 まず、彼は他の独裁者とは異なり、孤立した人間ではなく、その栄光は彼のカリスマ性と一時的な権力に立脚していたわけではない。レーニンはユートピア思想という連綿と続く思潮の一環であり、マルクス・エンゲルス・レーニン(スターリンは四人目のメンバーとしてこれに加わったが、その後、詐称者として告発された)という神話的三位一体の一員である。マルクス主義の開祖たちは、自分たちを拠り所とした者たちが、自分たちの思想をいかに実行に移したかを見届けるまで生き延びることがなかったため、共産主義者に対して行なわれた非難を免れることができた。そこでレーニンは長い間、開祖たちの保護を受ける恩恵に浴したのである。
 しかしまた、初めてユートピアを権力システムに変えたこの男は、四分の三世紀の間、共産主義のこの地上での権威によって保護されたのである。レーニンに異議申し立てするということは、共産主義諸国家が正当性を失うことを意味したであろう。この正当性は、彼の後継者たちによって理想化されたレーニンという人物と、彼らが依拠した至高の規準にして内在的真理たるレーニン主義によって付与されたものだからである。共産主義システムの存続には、このような様態の正当性付与が必要だったのだ。それさえ確保されれば、あとは自由に「レーニンへの回帰」の名においてスターリンを批判し、スターリンの活動の大部分をはねつけてもかまわなかったのである。

レーニンとは何者なのか
 しかし共産主義が拒絶され、闘争が放棄された現在、偶像にはもはや存在理由はない。ソ連邦は、〈歴史〉の中に入ってしまった。レーニンは今後は、政治的必要性や要請にとらわれずに、人物の功績と出来事を評価しつつじっくりと考える人々のものとなる。
 今日、レーニンに関して次のような重要な問いを発し、自分に問いかけることが可能である。レーニンとは何者であったのか。二十世紀最大の恐るべき悲劇の一つについて責任を負うべき犯罪者なのか。あるいは〈歴史〉の突然の転換の犠牲者であって、やがていつの日か新たな、恐らくは最終的な転換が訪れて、正しさが認められることになるのであろうか。政治的行為と政治的生成の中では、人物とその国を切り離すのは困難なものだが、その中でどれほどの部分を、レーニンという人間の人格に帰すべきなのか。彼の選択とその結果の中で、政治的背景――ロシアの遅れ、ロシアの外での革命の遅れ――が占めた部分はどれほどのものであったのか。レーニンは、人間への軽視が恒常的であった恐ろしい世紀を具現する者だったのか。あるいは人類に対して平和で穏やかな未来への道を描いてみせた――もしかしたらあまりにも早すぎたかもしれないが――予言者なのか。

レーニンの思想と意志に支配された二十世紀
 本書の念願とするところは、レーニンをイデオロギー上の情念から引き離し、終末を迎えようとしている二十世紀の歴史の中に彼を然るべく位置付けることに貢献しようということである。この世紀は望むと望まざるとに拘わらず、なによりも彼の思想と意志に支配されていたということになるだろうから。

(エレーヌ・カレール=ダンコース/ロシアおよび中央アジアを専門とする歴史学者・国際政治学者。アカデミー・フランセーズ終身幹事、欧州議会議員)