2006年05月01日

『機』2006年5月号:「ふたりごころ」 金子兜太・鶴見和子

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短詩型は命の原動力
鶴見 どうして短詩定型は命の原動力になりうるか、そこをうかがいたいの。


金子 これは自分の体験からしかわからないんだけれど、結局、ただ叙述するとか、意志を述べる。叙詩というか、述詩というか。あるいは見たものを書くという、高浜虚子がいった「客観写生」というような。そういうことは非常に初期的な短詩型についての考えでありまして、つきつめていくと、最近は自分では「情動」という言葉で呼んでいるんです。
 どうもやっぱり内面の激しい高揚のようなものが得られる。それが短詩型を書く歓びだし、それが傑作を生む理由だと。だから子供なんかの場合は、まったく無邪気に自分の情動のままに書くんです。それだけですごいですね。


鶴見 情動というのは、センティメントでもないし、フィーリングでもないの。それは行動の動機づけとなるようなモティベーションなのよ。


金子 私なんかがエロティック・アクションなんていうのは、まちがいです(笑)。しかし、エロティックなアクション、行動だというんだ。エロスというのはうんと広いですものね、意味が。もっとも原初的な意味のエロス、それの発動だと、こう思うんですけれどね。


鶴見 そう。だけどどうして、短詩定型がそうなんでしょうか。


金子 短いからだと、単純に思っています。集約がきくと思います。

「即物」ということ

鶴見 病気というのはすばらしい命の輝きを自覚させると思うのよ。自分の体にたいする感覚というのは、元気なときはないの。いつでも元気だから。痛いとか寒いとか、そういうのがないの。かつての私は雪が降っても、嵐になっても、台風がきても、約束を守ったんです。それで飛行機に乗って、日本国内でも外国でもどこでも飛んでったの。体が感じないの、恐れないの。だから感覚麻痺じゃないですか、健康体というものは。


金子 うーん、麻痺しがちですね。麻痺とまでは言えないけれど……。


鶴見 私は麻痺したら急に感じはじめたの。


金子 それがいまの情動をかき立てたんじゃないでしょうか。それまでは叙述的なんですね、短歌も俳句も。


鶴見 だけど、おっしゃってらっしゃるように、季語を季節感とするんじゃなくて、物として見て、それを究める。そしてただ叙景していても、自分の中にこういうことを言いたいという気持ちがあれば、単純な叙景であっても、それが暗喩になる。暗喩という言葉がとても適切なんですね、俳句には。暗喩になるというところがおもしろいんじゃないのかな。
金子
 金子 結果的にそうですね。


鶴見 結果的になるのよ。だからストレートに写生して、その写生が適切であれば、それは何かの文明批評をしてることになるの。それは自然をしっかり見てれば文明批評になるのよ。人間なんて変なものよ、ほんとに変なものなの。だから自然から学ぶということなんですね。ただ自然を描写しても、はっきり見ていれば、それが暗喩になり文明批評にもなる。


金子 そのとおりです。「即物的」という言葉で単純に最近はいうんですけれど、物によって語らせることができるという……。だからいままでわれわれは、とくに「自己表現」という言葉が非常にまずかったと思うんです。あれは私は近代の文芸用語だと思っているんです。「自己表現」という言い方が非常にまずくて、そんなものからは離れてゆかないと。


鶴見 だから自己を表現しようとして、意識して表現するとおかしくなる。


金子 おかしくなってしまうんです。硬くなりましたね。それよりも物に本当に即したときに、それによる感動も生まれるし、情動が生まれるし、そしてそれですべてを語ることができる。


鶴見 そうだと思う。宇宙飛行士の、肉を食べていたら月に突き当たって壊しちゃったという、そういう句があった(〈肉を焼く月ロケットを月に砕き〉)ということをお書きになって、これが文明批評なんだと。そういう事実をただ事実として書いたことによって、文明批評になっていると。


金子 それで物だけでなくて事柄、いまも時事問題がいろいろございますが、事柄のなかでも、それにある感動、いい意味のプラス・マイナスの感動があると思いますが、感動をおぼえたときの俳句とか短歌、これも説得力がございますね。だからよく時事的なものは、とくに俳句のような短い形式には向かないという言い方が行われておるんですけれども、それはまちがいだと思うんです。だから言葉が詐称されたということに対するあるインパクトがあった場合に、そのことを書いて、それが大変な暗喩力をもつということは当然ありうると、こう思っていますからね。「即物」ということが私には非常に大事で……。私は俳句だけできたため「即物」という言葉を教えてくれたのが、私は芭蕉だと思っているんです。それで一応、まず芭蕉を尊敬してるんです。

異端が正統になる
鶴見 金子さんからいただいた、全四巻の『金子兜太集』、それの第一巻をまず開いたんです。そうしたら扉のところからぱらっと落ちたのが「月報」なの。そしてひょっと見たら、佐佐木幸綱って書いてあるの。まず「わが青春の二書は金子兜太の『今日の俳句』、それから岡本太郎の『今日の芸術』であった。それをいまでも自分は大事にして、書棚の入口のところにちゃんと二冊そろえて置いてある」、そこからはじまっているから、私、びっくりしたの。
 私からみた幸綱先生と金子先生との相性というか共通点は、戦後、幸綱先生は短歌の異端、革新をやる。それから金子先生は俳句の革新。両方とも革新者なのよ。それで最初はなんだかんだとけんかしたり、もの別れになったり、いろんなことをしていて、いまやそれが正統になっているというそのすばらしさ。丸山真男さんが、弟の俊輔が『思想の科学』をやりはじめた時、「君は異端、異端と自分のことをいってるけれど、異端が正統にならなければ本当の異端ではないんだよ」とぼくは言われた、と俊輔がいいました時に、そのことをハッと思ったの。幸綱先生は異端ですよね。だけどいまやあの方は正統。金子先生は異端ですよね。そしていまや正統なんです。


金子 うーん。そこまでいってもらえるとうれしいですよ(笑)。


鶴見 これが正統なのよ。

「ふたりごころ」
金子 しかしよくいろいろ覚えてられるな。失礼ですが、昔からそういう記憶力ですか。


鶴見 いまのほうが記憶力はいい。八十六歳になって病気になったら、記憶力抜群です。


金子 そのはずだよな(笑)。


鶴見 私は明日死ぬかもしれない。次の瞬間に頭の中に何か起これば死ぬのよ。毎日、食べ物、寝る時間、自分の体には大変に気を遣って注意してるの。


金子 私の場合は、家内が病むようになったら、自分の体に気を遣うようになった。家内の療養に私がいないと経済的にまいっちゃう。働くことを身に課したんです。


鶴見 私もそうだったのよ。十四年間、私の父は脳梗塞で寝たっきり。失語症よ。だからよくわかります。だけどそのことを、私とってもいま感謝してる。人生に悔いがない。あっ、でもねえ悔いはあるのよ。それはもし私があのときにいまのこういう経験をしていたら、父にもっとよくしてあげられただろうって。健康な者の目から病人の父を見てたから、いくらやってもゆき届かないの。


金子 いまはそうお考えになってるでしょう。それは当然でしょうな、自分がその場面にくれば。


鶴見 だけど病人の世話を自分がほんとに背負って立つ時は、人間はほんとの真人間になるのよ。そこで金子さんのおっしゃる「ふたりごころ」になるのよ。ひとの苦しみがわかるようになるのよ。


金子 どうもそれは事実ですね。アニミズムの心のあり方として、そう思って書いてますから。

(かねこ・とうた/俳人)
(つるみ・かずこ/社会学者)
※全文は『米寿快談』に掲載(構成・編集部)