2006年04月01日

『機』2006年4月号:安場咬菜管見 鶴見俊輔

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小楠から受けつぐ儒教の道徳
 熊本県水俣出身の谷川雁の手引きで、熊本の執筆者との結びつきを得てつくった『思想の科学』の特集で、私は、偽筆と日本史学者に推定される横井小楠の「天道覚明論」にはじめて出会った。
 偽書行文は堂々としており、キリスト教を異教として排除してゆくつもりの明治新政府に訴える力をもっている。
 ところが、小楠の思想的発展を文書と書簡によってたどると、小楠がキリスト教を奉じたという痕跡はない。小楠の特色は日本が儒教をもととして開国後の西欧世界に対するという方向を提案し、西欧諸国のキリスト教に対して押し負けしない姿勢を示している。儒教にもとづく革命思想を持してヨーロッパ近代の民主主義と対しており、百五十年をこえて、高峰として現代から見ることができる。
 明治初年に明治政府の方針をきめる中枢にあった元田永孚、彼と協力して教育勅語を起草する井上毅は、いずれも、小楠の学統に連なる人で、儒学をもととするというところで、小楠の考え方を新政府の方針に生かした。
 そのちがいの主なところは、元田永孚、井上毅が、儒学の放伐論をさり、主君の批判を避けるということにある。ここで元田と井上の思想は、君主の言うことなら何でもしたがうという思想となり、師の横井小楠よりも、矮小な骨格をあきらかにする。その一点を問題にしないならば、質素に暮らし、努力を続けるという徳を守る特色として、小楠から元田永孚、井上毅、安場保和は、儒教の道徳を受けついでいる。


安場保和伝の白眉
 横井小楠は、堯舜、孔子の道をすすめることは、西洋器械の術と結びつかないことはないと考えて、そういう意味をこめた漢詩を二人の甥の渡米に際して贈ったくらいだから、英語による学問を門下にすすめていただろう。だが、年長の門下生である安場保和は、英語ができなかった。そのことが、特命全権大使岩倉具視の一行に加わってアメリカに行ってから仲間の前であらわれる仕儀になり、彼は、旅行を途中で打ちきって帰ってきた。
 砂糖(シュガー)をもってくるように給仕にたのんだところ、はいと承知してもってこられたのが葉巻(シガー)だったという一件である。
 このあとで彼は、英語のできない自分がこの旅行をするのは、税金の無駄づかいであると言って、皆の止めるのをふりはらって、日本に帰ってきた。彼は当時、三十七歳の租税権頭であり、税金の無駄づかいを痛感するのは、当然である。
 この帰国辞職のくだりを私は、安場保和伝の白眉と思う。このことによって彼は後年、現在の経済大国日本の高級官吏たちと型を異にする。

「菜根かみて百事なすべし」
 彼は本来、横井小楠の門下として、開国に際しても、堯舜の道をめざして国政に参画するという理想をかえる必要はない、と考えていた青年時代からの姿勢を保っていた。号を咬菜としたのは、洪自誠著『菜根譚』の「菜根かみて百事なすべし」からとったもので、自分へのいましめである。そのようにして政府につかえて、ぜいたくな暮らしをおくって後ろ指をさされるようなことなく、官を全うし、その地位を退いてからは山村に閑居して残りの日々をたのしむべきだという、儒教といっても老子、荘子に禅学を混ぜた折衷的な本である。家にあった漢英対訳本を手に取るとMeditations of a Vegetarian(菜食主義者の瞑想)と書いてあったので、親しい感じをもつようになった。明末の儒者の著書であり、幕末の日本で修養書として広く読まれたものらしい。安場保和が英語で失敗し、四代あとの私が漢文の原本が理解できなくて、英訳を手がかりとしてようやくおおすじを理解するというのは、へんなめぐりあわせである。

(つるみ・しゅんすけ/哲学者)
※全文は『安場保和伝』に収録(構成・編集部)