2006年03月01日

『機』2006年3月号:歴史は胃袋を追いかける 北代美和子

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選択の歴史としての食
 「食の歴史」を語るのは難しい。両親や祖父母が白米を食べるのを見て育ってきた私たちは、その親もそのまた親も白いお米を食べていたと思いがちだ。しかし、米食が日本全国に普及したのは昭和十七年に食糧配給制度が実施されたあとのことにすぎない。このとき日本人は、麦や粟、稗、黍などさまざまな穀物のなかから米を選んで、国民国家「日本」の食の基礎としたのである。
 人は身のまわりにある食用可能なものをなにもかも食べてきたわけではない。かつてインドでは、生存ラインすれすれの生活をする人びとでさえ、目の前を闊歩する牛に飛びついたりはしなかった。日本人は仏の教えにしたがって肉食を忌避したというのが通説だが、同じ生き物の魚を食べることは許されていた。日本人は蛋白源として獣ではなく魚を選んだのであり、そこには仏教の影響だけでは説明できない理由が隠されているはずだ。 種々の食用可能な品、多様な調理法のなかから、人は自らが食べるものとその食べ方とを選んできた。「食の歴史」とはその選択の歴史である。そして、選択の基準は、多くの場合、食品の味や栄養価、入手可能性、経済性を超えて、文化がその食品にあたえた象徴的な価値にある。

生産・交換・消費の歴史としての食
 人はまた、自分たちの土地でとれるものだけを食べてきたわけでもない。旧約聖書の記述は、近東では古代すでに広域にわたる小麦や油の取引がおこなわれていたことを示唆する。時代を下れば、北の海で漁獲される鱈は塩鱈にされ、南仏の港湾都市マルセイユの名物料理「塩鱈のブランダード」になる。昆布は琉球料理になくてはならない素材だが、沖縄近海では収穫されない。ヨーロッパの鱈も沖縄の昆布も、その定着は南北間の交易をぬきにしては考えられない。「食の歴史」とはまた「食物」という純然たる物資の生産と交換、消費の歴史でもある。

「象徴」と「物資」としての食物
 「象徴としての食物」と「物資としての食物」は複雑に絡みあいながら、世界史の大きな動因となってきた。その好例が砂糖である。異国から到来する砂糖は古来、薬効をもつ調味料として高い価値をあたえられ、珍しさと高値ゆえに富の象徴となって有産階級にもてはやされた。「砂糖はコーランにしたがう」と言われたように、サトウキビの生産はイスラム教徒とともに地中海世界に進出し、中世にはヨーロッパにおける砂糖供給の大きな部分をアラブ人が担っていた。十六世紀、新世界に開かれたサトウキビ・プランテーションから旧大陸に大量に流入した安価な砂糖は、アラブ人の経済力が低下する一因となった。また、中南米プランテーションの労働力がアフリカからの奴隷に求められたことは、現在も続くアフリカ大陸の経済的停滞に帰結した。


「歴史は胃袋を追いかける」
 アナール派の重鎮としてフランスの歴史学に指導的役割を果たした故ジャン=ルイ・フランドランと新進気鋭の歴史家、イタリアのマッシモ・モンタナーリの共同編集による本書は、食物のもつこの二つの側面――「象徴」と「物資」――に焦点をあてながら、先史時代から現代に到るまでのヨーロッパの食の変遷をたどった壮大な通史である。本書の大きな特徴は、「食の歴史」を個々の事象の積み重ねではなく、食というひとつの大きな構造体の進化の過程としてとらえているところにある。
 まさに「歴史は胃袋を追いかける」。私たちが過去に食べてきたものを通して、現在の食生活を考え、未来の食のあり方を探ることには大きな意味がある。未来の食を探るとは、私たち人類の未来を探ることにほかならないのだから。

(きただい・みわこ/翻訳家)