2005年11月01日

『機』2005年11月号:2005年11月号 超マクラ本、『〈主体〉の世界遍歴』の裏話 いいだもも

前号   次号


 南昌→景徳鎮→黄山→上海と回遊した中国旅行から帰って来て、『〈主体〉の世界遍歴』の2600頁を超えるゲラ稿の校正を死力をふりしぼってやっとこさ終えてホッと一息つきながら、厖大な原稿が勿体ないのでその裏にこれを記しているところ。だからこれがホントの裏話。

お代は見てのお帰り
 この間、超マクラ本のゲラ稿校正に専念してくれていたのは、いうまでもなく、発行元の藤原書店の藤原良雄、郷間雅俊、久田博幸の三氏、わたし自身の著者校正経験に徴してみても、この間の苦労はたぶん並大抵のものではなく、誇張なしに言って定めし死ぬような毎日の作業であったでしょう。ありがたい話です。
 物書きとは内味本位のきびしいものでありますから、物を書いたり創ったりするのにいかに苦労辛酸が要ったかという、日本人好みの美談というか苦労話は、事の本筋にとっては、割り切って言ってしまえば何のカンケイもありませんが、この超マクラ本の内味は、近来世界の書物として圧倒的な濃厚な汗と香りに満ち満ちている、とすくなくとも著者のわたしとしては自負しています。いわゆるノーベル賞ものでしょう、少なくとも重量感としては。お代は見てのお帰り、でかまいません。
 それに、藤原書店のお三方のこの半年間の一字一句もおろそかにしない精査校正の甲斐あって、この2600頁余の超マクラ本には、一つの誤植・誤字もない(?)だろう、と胸を張って請負えます。「校正畏るべし」であまり先立って自慢するものではないとされていますが、いまのわたしの気分としては後生など何ぞ畏るべしや、矢でも鉄砲でも持って来い、くらいの高揚した完全達成の気分でいます。日本での出版物としては珍しい、稀有ともいうべきこの校正モレのない大冊!

グッスリ眠れて、アタマ・ハッキリ
 わたしが小学生の時分に、「講談社の絵本」というシリーズが出て、それには「面白くて為になる」本というキャッチ・フレーズがついていました。そして、オマケがいつも愉しみだったグリコには、胸を張って百メートル競走のテープを切る「一粒三百メートル」というスローガンがついていましたっけ。
 この超マクラ本は、まさに、「面白くて為になる」本を、「一粒三百メートル」の体力で仕上げたものと言えます。子どもの時以来の宿願の達成です。「御民われ生けるしるしあり」で、八十歳になった老翁としては、嬉しい限りです。
 わたしは、先に千頁を超える『20世紀の〈社会主義〉とは何であったか?』というマクラ本を論創社の森下紀夫社主に出していただいて、世界でただ一人、一番早く(と思います)ソヴエト連邦をはじめとするスターリン主義体系としての「世界社会主義体制」の世界史的崩壊を、わたしなりのマルクス的分析・考察に基づいて予見して、それがまもなくもののみごとに当たったことにすっかり味をしめて、それから陸続と、『日本共産党はどこへ行く?』、『レーニン、毛、終わった――党組織論の世界的検証』とマクラ本を連発し、今ここに、藤原良雄社主の奇特なご協力をいただいて『〈主体〉の世界遍歴』の超マクラ本を出させていただき、さらに年内には別に論創社から著者畢生のマルクス経済学的達成である『恐慌論――マルクス的弁証法の検証の場』という、『〈主体〉の世環遍歴』から見ればホンの小冊子のようなマクラ本を出さしていただいて、いよいよめでたくこの世を辞する運びにいたったわけです。
 何でもわたしが風の便りに聞くところによれば、わたしが百連発するマクラ本は、読む者は著者ならびに業務上やむなく校正に当たる出版社の校正係の他には読み返した者がなく、したがってマクラ本として現代的不安に悩む万人の安眠用のマクラとして活用されている、という話で、その絶大な効能を買われて小売書店の多くでももっぱら「保健・衛生」のコーナーに並べられているとのこと。たしかに、今日ビマンしている現代的不安を鎮静し、不眠をともなうそれから離脱して、精神的保健・衛生をとり戻すのに、絶大な効能がある点については、すでに幾度かの経験で保証付きであるらしい。ですから、今度の超マクラ本では、これまで以上に「グッスリ眠れて、アタマ・ハッキリ」といった効果が期待できます。人類のみなさんにとって!


露呈しはじめる戦慄的危機
 人類文明史の一口総括と言っても、クレタ=ミュケーナイ時代の地中海世界文明からはじまる八千年の歴史的・理念的総括ですから、それなりに 2600頁余の咀嚼は入用となる。歯が丈夫でないといけない。しかし、八千年余の人類の営々たる営みの全省察ですから、2600頁などというのは軽い、カルい。実に簡略な人類文明史のエッセンスです。
 わたしが今日、このような簡易の書を志したのは、〈いま・ここ〉の現代資本主義世界システムの全般的危機の開始が露呈しはじめている危機の深さが、原爆・原発にいたった核分裂文明と、クローン人間の人工合成にいたった遺伝子分裂文明との様相に象徴されているように、現代資本主義を変革して、わたしたちの手作りする〈もう一つの世界〉を形成する構想を進捗させないかぎり、越えることのできない戦慄的危機であるという実感が、ヒリヒリと如実にあるからです。

現代思想的遺志の継承
 二十世紀初頭にフリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」と呼ばわって、これまでの西洋中心主義的・ロゴス中心主義的な文明的価値からの、根底的な価値転換を号して以来、第二次世界大戦のこの戦後においてミシェル・フーコーがつづけて「人間も死んだ」ことを臨床確認して以来、現代世界史は文字通りカミもホトケもヒトもなければ、あとに残った地球もエコロジカル・クライシスのなかで崩壊しようとしているこの〈いま・ここ〉においては、クレタ=ミュケーナイ地中海文明以来の八千年余の人類文明史を一口に掴み取って咀嚼することは、この日々を生きてゆくためには必要最小限の食事マナーであると言えます。
 その現在的端緒を、本書では学問的端緒として、二十世紀の最大の〈知〉の時代的特性である、言語批判を介したいわゆる情報論的転向以来の、ウィトゲンシュタインメルロ・ポンティの問題構制の検討から始めました。そして、エドムント・フッサールの二十世紀初頭における「ヨーロッパ諸学の根底的危機」を打開すべくうちだされた〈現象学〉以来の現代哲学ないしは反哲学の創発の先頭に立って奮闘これつとめてきた、モーリス・メルロ・ポンティ、レヴィ・ストロース、ミシェル・フーコー、そしてジャック・デリダの現代思想の遺志がどこにあり、今日を生きなければならないわたしたちが、その現代思想的遺志をいかに継承してゆくのか?というところに、長い助走路を走り切って高い三段跳びを跳ぶスタート・ラインを設定しました。志たるや、高くかつ大です。

見えないものを「見えるもの」へ
 西洋中心主義的思惟の今日的克服は、極東に生きているわたしたちにとっては自明であるように、中華世界・インド世界を中心に価値編成されてきた、東洋的思惟のもつ合理的核心の探り出しならびに復権と、相表裏することになります。
 本書冒頭のウィトゲンシュタインの〈独我論〉の典型的命題である、「わたしたちが知りえない事物については沈黙しなければならない」という『論理哲学論考』の有名な命題について、東西比較の〈沈黙考〉を展開してみせたように、わが釈迦牟尼は「拈華微笑」をもって明確に示しえたのであり、わがメルロ・ポンティにとっては「無言のコギト」を言語化して明視的に自己表示させることが、自らの遺作となった『見えるものと見えないもの』の最大・最後の主題であったわけです。このような無意識界もふくめた潜在化している見えないものを、言語批判の力能によって、可視的形象としての「見えるもの」へと顕在化=現前化させることこそが、古典古代ギリシア文明以来の原幾何学文様の明視的形象・彫塑を、今日に継承するわたしたちの構想力となるのです。

数多の新発見・新知見との出会い
 この超マクラ本で最も力を注がれているのは、西洋中心主義的歴史を定位させ定着させるにいたった、ペルシア戦争の世界史的分岐――この世界史的分岐の意義を「驚異」をもって感得したハルカリナッソスの人ヘロドトス『歴史』こそが、ミレトス派のタレスによる原理の探究としてのギリシア哲学の創発とともに、古典文明史が後世のわたしたちに遺贈した最大・最高の人類史的遺産となったものでした――以来の古代ギリシア=ローマ史の栄枯盛衰の分析に費やされています。この人類文明の正嫡の了解なしに、今日のわたしたちの世界史把握ができる筈がありません。古代ローマ帝国の帝政の末期における「暴君」ネロと「野蛮」ゲルマーニアについての辛口のタキトゥス『歴史』叙述にいたるまで、いたるところで数多の、支配的通説・俗説とは全く異なる新発見・新知見に読者が出会うことが必ずできます。

(いいだ・もも/作家・批評家)