2005年11月01日

『機』2005年11月号:古代ギリシアは、諸大陸間の文化の混合から誕生した M・バナール

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欧米で「黒いアテナ」論争の一大センセーションを捲き起こした『黒いアテナ』、遂に完結!

 M・バナールは1987年、古代ギリシアはエジプトと西セム語系フェニキアの植民地であり、そのルーツはインド=ヨーロッパよりもむしろ主にアフロ・アジアであるとする『黒いアテナI』を著した。古代ギリシアを自らのルーツに仕立てたのは、近代ヨーロッパの人種差別的歴史観による歴史の捏造だというのだ。
 これに対し、ウェルズレー大学のメアリー・レフコヴィッツが『黒いアテナ再訪』(共著)を刊行、『黒いアテナI』の主張に真っ向から反対した。この本では、西洋文明が古代エジプト、フェニキアにルーツをおくことにも、また古代エジプト人をと捉えることにも、また人種差別的歴史観によって歴史が捏造されたという指摘にも疑問が呈されている。
 ここに掲載する文章は、バナールがレフコヴィッツに対する反論として掲載した論文の一部である。(全文本書収録)
 『黒いアテナ』プロジェクトは全四巻の計画であるが、『黒いアテナII』が1991年に出版され、『III・IV』は未刊である。また、『黒いアテナ』への批判への批判として、バナール著『「黒いアテナ」への疑問に答える』(デューク大学出版局、2001年)がある。

『黒いアテナ』は死んだか
 2001年2月2日付の『タイムズ文芸付録』〔以下TLSと略記〕にメアリー・レフコヴィッツが寄稿した論文(「現代の寓話――『黒いアテナ』の破壊的遺産」)は、今から四年前、エジプト学者のジョン・レイがTLSに書いた論文〔「ソクラテスはどれくらい黒かったか――ヨーロッパ文明の起源とアフリカ中心主義の危険」、1997年2月14日号〕の中にある、「『黒いアテナ』は死んだ」という文章の引用で始まっている。しかし、マーク・トウェイン自身の場合がそうだったように、私は『黒いアテナ』の死亡報告は「誇張である」と思う。もちろん、ある考え方や仮説の死をどう定義するのか、これはむずかしい。簡単にいえば、ある種の考え方や仮説を人びとが信じつづけるかぎり、その考え方や仮説は生きつづけているといえる。しかし、「判断するにふさわしい人」や「理性ある人」が誰もそれを信じていないのなら、その考え方は死んだといえるかもしれない。ところが、判断するにふさわしい人や理性ある人が誰も『黒いアテナ』を信じていないという、その〈信じていない〉ということそれ自体が、非合理性の徴候であるとするならば、その主張は循環論になる。この場合、『黒いアテナ』で展開された仮説について、これを刺激的で興味あると考えている学校や大学の教師や研究者たちを無視することはむずかしい。彼らと同じように考えている関連研究分野にいる多くの支持者たちや、古典学分野の少数派の学者たちを無視することもむずかしい。全体として言えば、メアリー・レフコヴィッツが「『黒いアテナ』の遺産」を議論するのは時期尚早であり、そうあって欲しいという願望の結果にすぎない。

「脱中心化した」のはどちらか
 ギリシア文明は北方からとギリシアそのものから生まれたと考える〈アーリア・モデル〉の考え方は、ギリシア文明についてのオーソドックスな誕生説である。この考え方に私が異を唱え、ギリシア古典研究を「脱中心化」した〔ギリシア文明にアフリカとアジアの影響があったと考えた〕ことは広く知られており、そのため、私の著作はポスト・モダン的だと考えられるのだろう。しかし、私は事態は逆だと考えている。19世紀前半、ギリシア古典研究という学問分野を確立した人びとは、古代ギリシアの歴史家たちに支配的な考え方、つまり、それ以前の少なくとも二千年間受け入れられていた〈古代モデル〉を脱中心化した〔ギリシア文明にアフリカとアジアの影響があったという考え方を無視した〕。〈古代モデル〉では、古代ギリシア人たちの先祖が南方と東方からの影響をうけた結果、ギリシア文化が生まれたと考えられていた。
 メアリー・レフコヴィッツは「陰謀」という言葉で私をくりかえし非難するが、19世紀の歴史叙述のラディカリズム、すなわち、脱中心化が「陰謀」だったと、私が説明したことはない。この問題との関連で言えば、私が陰謀という言葉を使ったことはこれまで一度もない。ギリシア古典研究の学問を確立した父祖たちの著作は率直そのものであり、彼らは、人種的本質を不変と考えるロマン主義的信念と結合し、人種差別主義をつよめていた当時の一般的思潮を反映していた。こうしたことは、ヨーロッパの工業化が成功して世界中に拡大した結果であり、人びとは成功に酔いしれていなかったにしても、心はうきうきとはずんでいた。このような雰囲気のなかで、いまではヨーロッパの揺籃の地と目されたギリシアが、古代人が考えたような、アフリカ人とアジア人によって文明化されたというような考え方は不快なばかりでなく、「非科学的」なものとなった。したがって、私の提唱する〈改訂版古代モデル〉は、地中海地域の古代史を「脱中心化」した〔ギリシア文明にアフリカとアジアの影響があったとする考えを無視した〕のではなく、「再中心化」した〔ギリシア文明にたいするアフリカとアジアの影響をふたたび認めた〕と考える。
 レフコヴィッツは、古典学者たちのあいだではつねに論争があるので、私が攻撃したようなオーソドクシーなど存在しないと主張している。トマス・クーンが提唱した「パラダイム」でさえ問題はあり、その概念は不正確なものだが、「パラダイム」概念が不正確だからといって、それが役に立たないということではない。大部分の学問は、「学問」であるという性質上、その枠組みのなかで学者たちが研究し、論争するパラダイムをもっている。1840年代から1980年代まで、ギリシア古典学の学問的枠組みの重要な側面は、古代ギリシア人はすべての分野で立派であるが、歴史の分野だけはお粗末だという認識であった。とりわけ、古典学者たちは、ギリシア人たちがそこから大いに学んだエジプトと東方の叡智についての報告をばかげたものと考えていた。

エジプト思想の内実
 レフコヴィッツは、「エジプトの思想には、プラトンやアリストテレスの著作と類似した思想は皆無である」と主張する。しかし、私はこの主張にたいして、ジョン・レイの最近の文章(1998年版『ルートレッジ哲学事典』のエジプト人の宇宙論についての文章)を引用して応じたい。


 エジプト人が技術的に達成した領域と特質には、ある程度の理論的知識が前提になっている。理論的知識の一部は現在まで残っており、なかにはエジプト語の文書そのものや古典時代の著作家たちの論評から再構成できる知識もある。現代の学者たちの評価も、エジプト思想を高く評価したギリシアの注釈家と同じ方向にますます傾斜している……。イアンブリコス〔250頃~325頃、ギリシアの哲学者〕は、……それ[エジプトの宗教]がプラトンの〈イデア論〉の原型であったと確信していた。近年このような考え方が信頼を得てきているが、大部分のエジプト学者たちはそれを拒否してきた。


 このように、ここでもレフコヴィッツの考え方は時代遅れになっている。

異なった大陸の文化の混合
 レフコヴィッツは、彼女の考える〈アフリカ中心主義〉と私が密接な関係があると力説している。ほぼ二百年のあいだ、〈アフリカ中心主義者〉たちは彼ら自身の〈古代モデル〉に執着し、白人の学界エスタブリシュメントのみならず、それに適応・順応している黒人からも面と向かって軽蔑されながら、古代エジプト人は黒人であったと考えてきた。私が彼らを尊敬していることは事実である。しかしだからといって、たとえば、クレオパトラが黒人だったとか、創造性にはが必要だというような、何人かの〈アフリカ中心主義者〉が主張している乱暴な見方を私が受け入れているわけではない。しかし興味深いことに、重要な点で、メアリー・レフコヴィッツの立場は私よりも〈アフリカ中心主義〉に近い。ジョージ・ジェイムスは例外として、大部分の〈アフリカ中心主義〉の著作家は〈古代モデル〉を受け入れてはいるが、〈古代モデル〉にはたいして関心がない。彼らはアフリカが「敵性大陸」ヨーロッパの発祥地であるという〈古代モデル〉の主張について、とりわけ重要だとか望ましいとか考えているわけではない。彼らにとって決定的に重要なのは、〈エジプトがアフリカである〉という論点であり、これについてはレフコヴィッツも進んで完全に受け入れるだろう。彼女と大部分の〈アフリカ中心主義者〉たちは、異なった大陸の文化の混合という考えに反対している。メアリー・レフコヴィッツが忌み嫌っているのは、大陸間の文化が混じり合った結果、「栄光のギリシア」が生まれたという『黒いアテナ』の私の主張なのだ。

(金井和子訳)
(The Times Literary Supplement,2001.5.11)