2005年07月01日

『機』2005年7・8月号:英国娘からの百通の恋文 伊丹政太郎

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留学生たちの恋愛体験
 明治の初め、海外の新知識をもとめて海を渡った日本人留学生の中には、異国の女性と恋愛関係をもった若者が大勢いる。恋が実をむすび国際結婚にゴールインした例もある。ロンドンに留学した山城国郷士の尾崎三良、長州藩士だった南貞助、そしてグラスゴーに留学した広島出身の竹鶴政孝は、いずれも英国女性と結婚した。
 互いに異なった文化背景をもつ明治の日本人男性とヴィクトリア朝の英国人女性。彼らは相手をどう理解し、愛を育んだのだろうか。この時代のいわば個人レベルでの日英交流の実像を知りたいと思うが、残念ながら留学生たちの恋の軌跡がたどれる史料は皆無にちかい。彼らは女性との関係については堅く口をとざした。恋人からの手紙は残さなかったし、日記にも書かなかった。森鴎外と『舞姫』エリスの場合も、鴎外は死に臨んで一切の手紙を焼却させたと伝えられている。

英国娘の百通の恋文
 三十年ばかり前、男爵いもで知られる北海道の旧川田農場で、百通の古い英文手紙が発見された。明治の初め、造船技術を習得するためスコットランド・グラスゴーへ留学した川田龍吉が恋人から受け取った手紙だった。相手は十九歳の女性でジニー・イーディーといい、書店の店員だった。その手紙には二人が恋に落ち、結婚の約束をし、別離に至るまでの経緯が記されていた。文中、つぎのような言葉が目にとまった。


  ねえリョウ、あなたが馬車のことで頭を悩ませないようにと願っています。……私が結婚するのは馬車じゃなくてリョウキチさんなのですよ。……だけどリョウ、私をあなたの妻と呼んではいけませんわ。まだ、そうじゃありませんもの。……おやすみなさい、リョウ。わたしの心はいつもあなたのもとにあります。
愛をこめて、ジニー

文化の壁を超えた交流
 ジニーは敬虔なクリスチャンだった。安息日には朝夕二回、教会に通っている。彼女は龍吉に教会へ行くようたびたび誘うが、彼はジニーの説得に応じない。幕末の土佐郷士の家に生まれた龍吉は幼いころ勤王攘夷運動の影響をうけ、天皇を崇拝していた。キリスト教を信じることは彼の信条に反した。教会に行くことは拒否した龍吉だったが、二人は宗教、文化の壁を超えて交流を深めてゆく。互いに手紙をやりとりし、手紙を通して自由に意見を交わし、考えを論じあった。ジニーのような自立した女性との交際はこの時代の日本人男性には思いもよらない体験であっただろう。

二人の心性の記録
 出会いから一年後、二人は結婚の約束を交わす。龍吉は結婚の許しを得るため帰国するが、両親は英国人女性との結婚を許さなかった。龍吉は日本に縛りつけられ、再び英国へは戻れなかった。彼はスコットランドで身につけた技能を生かし、横浜に二つのドックを造ったのち、北海道へ渡り西欧式の農場を拓く。そこで試作したのが男爵いもだった。じゃがいもはジニーとの思い出につながっていた。
 明治の日本人留学生には、似たような体験があっただろう。しかし、恋愛中の男女が日常生活にどう対応し、社会の壁に挑んだかを照らし出した史料は見当たらない。ジニーの手紙が珍しいのはその点にある。本書は百通のジニーの手紙を軸に構成したが、龍吉の手紙は発見できなかったため彼の文面は推測し、解説した。時代の制約をつらぬき、時代に生きた日本の若者と英国女性。この物語は彼らの心性の記録でもある。

(いたみ・まさたろう/TVディレクター)