2005年07月01日

『機』2005年7・8月号:鶴見俊輔+金時鐘

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辻井喬の「鏡としての金時鐘」
鶴見 辻井喬の文章で「鏡としての金時鐘」というのにとても感心したんですね。金時鐘の作品は、日本の一人の詩人が全力を挙げて論を展開した例がないというんですね。金時鐘の作品は我が国の近代、現代とその中に自足している詩の世界を告発していることは明らかだから、これにとり組んだ一冊の本がないということは日本の近代史、現代詩そのものの欠落を示している、と。すごいことを言うなと思って、感心したんです。辻井喬自身がいろいろなことの中できわめて孤独に、ずっと考えてきたという、やはり日本の社会の中にある一つの孤独が、日本の社会にあるもう一つの孤独を認めさせたという感じがしますね。私は辻井喬の位置を考え、彼がその位置によって金時鐘の位置をよく見定めたという、このエッセイは大変おもしろいものに思えたんです。孤独が孤独を知るということですね。それだけの位置を占めているということは、私にも共感できるものなんです。辻井喬がよくそういうことを見定めたということで、彼の実力を感じます。
 非常に孤独なんですね。彼の孤独が深まっていく中から、これは在日朝鮮人の中でこういうふうに、孤独の中でずっと自分の道を歩いていった人を見ている。

乾いた悲愁
 僕は日本に来てずっと、大阪生野区の同胞が集落を成している猪飼野周辺で生きてきました。集成詩集という形で、『光州詩片』や『猪飼野詩集』が九一年に『原野の詩』という一冊の本になりましたが、大きな会場でお祝いしていただきましてね。みんなが「難しゅうてワシらにはさっぱりわからん。おまえのことやからええこと書いているやろとはみんな思っとるんやが、も少しワシらにもわかるもん書いてくれや!」と言っては笑い合っていました。そして歌が出る。日帝下ではやった歌、早くから感情移入して歌ってきた歌ですね。歌い終わって、感じ入ったように「ええ歌や。おまえもこんなの書いてくれや」と注文する。
 僕は「何とか努力します」と笑い返しますけど、内心ではこのオッチャンたちの希望に沿うことはまずあり得ない。僕はこの老い先短いオッチャンたちのやるかたない情感的な要求にむしろ心して隔たっていなくてはならない。このオッチャンたちが買ってくれた詩集が子供の子供にまで引き継がれたとき、きっとオジイチャンたちのあのとした悲愁の情感とはまた別の、乾いた悲愁に行き当たってくれるかもしれない。その可能性を信じるのです。オッチャンたちの期待からはそうして切れてつながっているのだ、と僕はずっと思っている。最も近しい関係であるほど切れていなければならないものがあるのです。それを見定めるのが僕の詩でもあります。

乾いた悲愁
鶴見 初めから裂け目があるというところが、金時鐘さんの日本語で書かれた散文の特徴なんですね。『「在日」のはざまで』の頭に「クレメンタインの歌」が出てきますが、それに託していく言葉は、言語で言えば重層的なんですね。これはまず英語であって、それが日本語に訳され、恐らく日本語として朝鮮語に訳され、というふうな三重になって。だから、これはもともと朝鮮語で自分の心情を託した歌というのと違うんですね。そこに、私は人間的なものがあると思うんですよ。つまり言葉というのは結局、もともと移民の言葉なんですよ。実際移民の文化以外に人間は持っていないんですよ。

(つるみ・しゅんすけ/哲学者)
(キム・シジョン/詩人)
※全文は『境界の詩』に収録(構成・編集部)