2005年03月01日

『機』2005年3月号:「在日」とは何か 朴一

前号   次号


日本帝国主義の遺産
 1910年、日韓条約で朝鮮半島は日本の植民地になった。その年から1945年の民族解放まで、さまざまな事情で朝鮮半島から日本に渡ってきた人々が在日コリアン一世である。
 在日コリアンといえば、朝鮮から「強制連行」されてきた人たちと思っている日本人が少なくないが、それは正しい理解ではない。彼らの中には、植民地期に日本が行った土地調査事業や産米増殖計画によって土地を奪われたり、生活苦に陥った結果、生活の糧を求めて日本にやってきた人も少なくない。いずれにしても、在日コリアンの存在は、善かれ悪しかれ日本帝国主義の遺産であることに間違いない。
 45年8月15日、在日コリアンはこの日を解放記念日と呼ぶ。その日、天皇が戦争の敗北を認め、祖国が日本の植民地支配から解放されたからだ。当時、在日コリアンは236万人もいた。このうち、約170万人が日本にわずかな財産と苦々しい思い出を残して、朝鮮半島に帰国した。
 日本にとどまっていた在日コリアンの多くも帰国の道を模索していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争で帰国の夢は打ち砕かれる。そして帰国を断念した 60万人もの在日コリアンが、そのまま日本にとどまることになった。やがて、その人たちに子どもが産まれ、孫が誕生し、二世、三世、四世として日本に定住することになったのである。

在日コリアンの半世紀
 朝鮮戦争によって、朝鮮半島は二つに分断された。米国占領下の半島南部では李承晩を大統領とする大韓民国、ソ連占領下の北部では金日成を国家主席とする朝鮮民主主義人民共和国が成立した。こうした民族の分断は在日社会にも持ち込まれた。日本に韓国政府を支持する在日本国居留民団(民団)と、北朝鮮を支持する在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の二つの組織が誕生し、在日社会は分断した。そして個々の在日コリアンは自らの立場をめぐり「北か南か、右か左か」を問われ、半世紀に亘って対立・苦悩してきた。
 しかし、一世の時代、多くの在日コリアンにとっては、「まず、この地で生きていくこと」が先決であった。国有地にバラック小屋を建てて住んだり、番地がない川べりで生活した人もいた。そして彼らは日本人がやらない「3K」の仕事で生計を立てた。養豚や鉄くず拾いで小銭を稼ぎ、やがて焼肉屋や鉄工所などの自営業を起こすようになった。
 一世の親たちは、二世の子どもの教育には熱心だった。彼らの多くは、日本で自分たちが差別されたのは「学歴」がないからだと考え、たいへんな苦労して子たちを大学まで行かせようとした。だが、二世が大学を卒業しても、日本企業への就職は困難だった。「学歴」が差別突破の特効薬でないことを知った三世たちは、日本で生きてゆくために「資格」を取ることが必要と考えた。その結果、在日コリアンの新しい世代から、医者、薬剤師、看護士、弁護士、公認会計士、税理士、大学教授など、専門職につく一群のホワイトカラーが誕生したのである。

変わりつつある「在日」
 二十一世紀に入り、一世、二世による民族差別撤廃運動の結果、在日コリアンへの制度的差別はかなり緩和されつつある。在日コリアンが国籍や民族にかかわらず、自らの能力で自らの未来を切り開くことができる時代になりつつある。むしろ、在日コリアンにとって、国籍や民族にこだわって生きる意味が問われるのはこれからだ。植民地、分断、差別が織り成してきた「在日」の姿は変わろうとしている。

(パク・イル/大阪市立大学教授)