2004年09月01日

『機』2004年9月号:内田義彦の問い 山田鋭夫

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分業社会のかかえる難問
 内田義彦はアダム・スミスについての勉強から出発した。スミスといえば『国富論』で知られ、またその冒頭の分業論は格別に有名だ。未開社会では全員が働き、近代社会では働かない者が多数いる。それなのに近代社会の方が全員はるかに裕福に暮らしている。いったい、それはなぜなのか。――近代社会では「分業」が発展しているからだ。スミスはこう喝破して、「分業」がいかに生産力を高めるかを印象的に語る。
 分業は「専門家」を生むし、そうでなければならない。誰もが自分の仕事では専門家になり、そして誰もが専門以外では「素人」であらざるをえない。このとき、素人は専門家の言いなりになり、主人と奴隷のような関係になっていいのか。せっかくの専門家が素人と切れてしまい、切れることによって素人が専門家に支配され操作されてしまう。分業が人間や社会に恩恵をもたらすどころか、人びとを抑圧してしまう。しかも、社会全体で専門家と素人が分断されるだけでなく、一人ひとりのなかで交差され統一されるべき「専門家の眼」と「素人の眼」が分断される。仕事人たるあなたと生活人たるあなたが別人になってしまう。
 人びとの日常の具体的な経験は、具体的な日常語のままでは広く伝わらない。そのままでは個人の知恵や知識が社会全体の財産にならない。このとき学術語は、個人の経験に普遍的な形式をあたえることによって、それを万人にひらく役割をする。本来そのはずである。それによって学術語は、あなたが世界を見る眼を補佐してくれるはずなのだが、現実には学術(語)は日常(語)と切れてしまう。
 さらにまた、専門化が進めば進むほど、扱う対象の部分化、細分化も進む。部分が全体にどう作用するかという、部分と全体を交錯させる眼を失う。

専門を超えた専門家
 分業はたしかに物的ゆたかさをもたらした。また、私たちの社会は分業ぬきにはありえない。いや、分業はますます進んでいき、ますます専門化は進んでいく。そうであらざるをえない。だからこそ、現代人にとって「進路」や「適職」への問いが生まれ、「仕事」にかかわる悩みが生まれる。誰もが親の土地を継いで農業を営むという社会では、こうした悩みは発生しなかった。ところが分業は、人間同士の言語不通を生み、専門家による素人の支配を生み、人間の手段視を生む。
 内田義彦はこの問題を問いつづけた。そして、これを一歩でも超える道を問いつづけた。その一つが、彼の「一人一人の人間が生きるということそれ自体のもつ絶対的意味」ということばである。そこには、あらゆる専門なるものの奥にある厳然たる事実がしっかりと見すえられている。すなわち、人間が社会をなして自然に働きかけつつ生きており、人間一人ひとりはそのなかにいるのだという事実である。この原事実において人はみな平等であり、人間一人ひとりは、それぞれにかけがえのない絶対的存在である。分業の全体への眼は、一人ひとりが生きることの絶対性への眼につながる。
 「達人」とも言われるほどの専門家になると、しばしば専門において深いがゆえに、専門を超えて万人共通の根に響く真理を語る。本当の専門家は右の原点を片時も忘れないからこそ、専門を超えるのである。「達人」まかせではいけない。この社会の誰もが「本当の専門家」になっていかねばならない。一人ひとりが「専門に溺れる」のでなく、専門家であることによって「専門を超える」ことが必要なのである。そして、専門家であらざるをえない私たち一人ひとりがこうした原点をしっかりと踏まえるとき、そのときはじめて、専門家が素人を「軽蔑する」のでなく、「素人発言を専門家の眼でくみとる」こともできるようになるのであろう。それによって、人びとの間にゆたかなコミュニケーションの道がひらかれるのであろう。

(やまだ・としお/名古屋大学教授)