2004年08月01日

『機』2004年8月号:近代の奈落と救済としての歴史 佐野眞一

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 「わし共、西郷戦争ちゅうぞ。十年戦争ともな。一の谷の熊谷さんと敦盛さんの戦さは昔話にきいとったが、実地に見たのは西郷戦争が始めてじゃったげな。それからちゅうもん、ひっつけひっつけ戦さがあって、日清・日露・満州事変から、今度の戦争――。西郷戦争は、思えば世の中の展くる始めになったなあ」
 戦さが始まった年、親たちが逃げた山の穴で生まれたという老人はそう語る。
 「西郷戦争は嬉しかったげな。上が弱うなって貰わにゃ、百姓ん世はあけん。戦争しちゃ上が替り替りして、ほんによかった。今度の戦争じゃあんた、わが田になったで。おもいもせん事じゃった」
 『西南役伝説』で語られているのは、目に一丁字もなき者たちの眼に「小文字」だけで刻まれた、逝きし世のおびただしい記憶の堆積である。今から百二十年以上前の出来事が、読む者の眼前にありありと浮かびあがってくるのは、石牟礼が彼らの言葉を、今にかわらぬ風のそよぎや木々のざわめきと、へだてなく受感する詩的インスピレーションの持ち主だからにほかならない。
 石牟礼文学における話者と記録者の関係は、沖縄の祝女とさにわの関係に似ている。古老たちの語りは、石牟礼という比類なき聞き手を得て、読む者をはるか遠い世界へと誘出する。そこは誕生以前の未生の世界のようでもあり、死後に辿る輪廻転生の世界のようでもある。

無明の語り言葉
 無文字社会に生きた人びとの言葉は、なぜ、内臓をいきなりわしづかみするように世界をむきだしにしてしまうのか。どうして、裸で地べたにじかに寝かされるようにせつないのか。それは、強烈な陽光の照射にも似た書き言葉より、樹の下蔭の陰翳にも例えられる書き言葉以前の無明の語り言葉が、枯れてはまた茂る民草の葉脈を、却って鮮明に浮かびあがらせているからであろう。
 これは、歴史の教科書からは絶対に透視できないまなざしと、耳をどれだけすましても聞こえてこない声の記録である。

過去の光で現代を見る
 「苦海浄土」の初稿が発表されたのは、昭和四十年(一九六五)、「西南役伝説」の初稿発表の二年後である。「西南役伝説」のなかには、不知火海の魚を食べて死ぬ水俣漁民の話が、早くもところどころに点描されている。
 歴史学者のE・H・カーは、歴史とは何か、と問われて、それは現代の光を過去にあて、過去の光で現代を見ることだ、と答えている。酸鼻というほかない目の前の現実が、百年前、この地で起きた出来事に石牟礼を導いた。石牟礼はこう述べている。


   前近代の民の訴えたかった心情を、近代社会はさらに棄てて顧みない。それはなぜなのか、どのように捨てて来たのか。永年にわたる自己の疾病のようにこだわり続けてその極限に水俣のことがある。


 あとがきには、こんな言葉もある。


 目に一丁字もない人間が、この世をどう見ているか、それが大切である。権威も肩書も地位もないただの人間がこの世の仕組みの最初のひとりであるから、と思えた。それを百年分くらい知りたい。それくらいあれば、一人の人間を軸とした家と村と都市と、その時代がわかる手がかりがつくだろう。


 それを石牟礼は、全編天草ことばでやり遂げた。

庶民の力強い言霊
 それにしてもこの作品に登場する人びとは、なぜかくも魅力的なのか。それは名もなき庶民に限らない。西南役に出陣し、意識不明のまま捕縛された仁礼仲格は、帰郷後、御一新の改革とは無縁の生を送った。仁礼の落魄の境涯に注がれる石牟礼のまなざしは、近代に汚染される以前の風土を語るかのように、限りなく優しい。
 御一新後、中央顕官に栄達した薩摩士族が故郷に錦を飾り、人力車の上から、汚れた素足に藁草履を履いて道行く仁礼を見かける。
「仁礼どんじゃごわはんか」
という声に、仁礼は人力車上の人物をふっと見あげるが、返事はたった一言、
「ああ、おはんな」
というだけである。


   なんの感慨もなげに礼を返し、尻の切れかかった藁草履のかかとを見せて、歩み去るよれよれの後姿が、海に面した町のかげろうの中をゆく。色を失うのは人力車上の人物であったろう。


 かげろうの中に消えてゆく仁礼の姿の先には、近代の歴史のなかに溶暗していった人びとの、民話ふうの口承の大地が広がっている。それはたとえば、民俗学者の宮本常一が、土佐山中の橋の下で小屋掛けする盲目の元馬喰に言わせた「ああ、目の見えぬ三〇年は長うもあり、みじこうもあった」(「土佐源氏」)という哀切きわまる絶唱であり、対馬に渡った開拓漁民の「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」(梶田富五郎翁)という庶民の力強いである。
 これらの作品を収めた『忘れられた日本人』が発表されるのは、「西南役伝説」の初稿が書かれる三年前の昭和三十五年(一九六〇)である。石牟礼はおそらく、無文字社会に生きた人びとの息吹きを伝えて間然するところないこの作品から強い感化を受け、「西南役伝説」の仕事にとりかかったに違いない。

一条の光の物語
 石牟礼は、「西南役伝説」を書かせた原動力の所在を自ら確認するかのように繰り返し述べている。


   目に一丁字もなきただの百姓漁師が、なぜ、生得的としか思えない倫理規範のなかに生きてきたのか。彼らはなぜ、風土の陰影を伴って浮上する劇のように美しいのか。
   そのような人間たちが、この列島の民族の資質のもっとも深い層をなしていたことは何を意味するのか、そこに出自を持っていたであろう民族の性情は今どこにゆきつつあるのか。その思いは死せる水俣の、ありし徳性への痛恨と重なり続けているのである。そのような者たちが夢見ていたであろう、あってしかるべき未来はどこへ行ったのか。あり得べくもない近代への模索をわたしは続けていた。


 水俣の海は近代の奈落に通底している。石牟礼もいうように、水俣漁民たちの魂の依り代は異教や一握りの土地や海であり、その寄るべを失った者たちを打ち棄てたまま、日本の近代ははじまるのである。
 これは、異教徒の弾圧や一揆、島抜けという近代の冥界をいながら、魂の救済の在所を求めた一条の光の物語である。

(さの・しんいち/作家)