2004年03月01日

『機』2004年3月号:複数の東洋/複数の西洋 武者小路公秀+鶴見和子

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「9・11」以後の乱世を生きぬくために

国際関係論と内発的発展論
【鶴見】 かつて、近代化論というのは、収斂概念かそうではないのかということが論争になりましたけれども、結局、大雑把にいえば、私は収斂概念だと思うんです。それがグローバル化につながっていくように思うんです。というのは、一番先に近代化した社会はイギリス、アメリカ。そしてアメリカがいま一番近代化の進んだ社会であるという前提で、多かれ少なかれ、早かれ遅かれ、世界中の国々がアメリカやイギリスのような、政治的に安定して、経済的に繁栄している社会の構造と同じような形になるという理論です。競争はありますけれども、みんな同じになるんだから、対立し、けんかするということは考えられない、という考えなんですけれども、それではいろいろ困ることが起きるのではないか。
 それで私は「内発的発展論」ということを言いだしたんです。それぞれの社会、あるいはそれぞれの社会のなかのそれぞれの地域は、それぞれの自然生態系に根ざして、それぞれの宗教も生活習慣も価値観も論理もふくめた、それぞれの社会の伝統的な文化にもとづいて、それぞれの地域の人々の要求にもとづいて、それぞれ異なる発展の仕方があることがよいことだと。それが私の「内発的発展論」の大雑把な定義です。
 それで武者小路さんに、とくに国際関係論のなかで内発的発展論を生かすことはできるのか、そのような事例はあるのか、ということをうかがいたいと思って、対談をお願いしたわけでございます。

非一神教の立場から
【武者小路】 9月11日以来、二つの文明の衝突が現実に起こっている。一つは近代西洋文明と大雑把に言いますが、要するにアメリカの文明です。そしてその文明を担っているアメリカは、それ以外には文明はないという。文明の側につくか、テロの側につくかということで、すでに文明は自分たちの文明しかないという断定をしている。そして敵として選んだ文明がイスラム文明である。
 つまり違った発展経路があり、違った近代化があるということを前提にしないと、反テロ戦争という衝突が起きてしまう。発展の経路にはたくさん違うものがあり、それがお互いに切磋琢磨して、暴力による衝突ではなくて、もっとお互いに相手を批判しあうという、反省的な形で近代というものを乗り越える、そういう対話がイスラムの文明とヨーロッパの近代文明、あるいはアメリカの近代文明とのあいだにあってしかるべきではないか、という問題意識がありました。
 それで私が国連大学で話したことは、東西の交流というときに、二つの東西があるということでした。じつはこれはユネスコ(国連教育科学文化機関)がやった研究からはじまるのですけれども、東西の文化の交流ということで、東の側からは、たとえば中村元先生とかが中心になって仏教の文明などを東の方において、それでユネスコによって東西の交流というプロジェクトが50年代に出てきました。そのときの東西文明にイスラムは入っていない。けれどもいま問題になっているのは、じつはイスラムという東洋と、西洋との「文明の衝突」です。
 今の「文明間の衝突」は一神教同士の争いになっていて、私たち一神教でない伝統を持ったところは、反テロ戦争のような戦争には巻きこまれてしまうけれども、対話にはなかなか参加できない。それなのにわれわれは衝突している当事者とは別の考え方や文化をもっているということがあると思います。私が強調しようと思ったことは、まさに一神教同士の対話というものは、お互いに「目には目を、歯には歯を」ということで自己主張して、相手の責任をえぐり出すような非常な不寛容な対立のなかでの対話になってしまう。そこにはどうしても不寛容な対立を乗り越える第三者が必要である。つまり非一神教的な東洋の発想をもとにすることで、一神教同士の争いをもっと広い対話の場に引きずりこむことができるのではないかと考えているわけです。
 私たちの見ている西洋はイスラムが見ている西洋とは違う。イスラムが見ている西洋というのは、ただ世俗化したということで、神を中心にしないで、人間を中心にしている。人間を中心にしながら、結局は人間を商品化してしまう。私たちは別に神の立場からものを考えてはいない。むしろあらゆる生きとし生ける者のあいだのつきあいのなかで、近代に対する批判もするし、一神教が不寛容であるということに対する批判もする。
 その立場から私たちがヨーロッパを見ると、結局はヨーロッパは一つではなくて、二つのヨーロッパがある。そのヨーロッパのある面は開かれたヨーロッパで、民主主義とか人権とか、非常に積極的に評価できる近代をもたらした。けれどもそうではなくて、非常に強圧的な形で、普遍的だといって自分たちが主張している価値を相手に押しつける、そういう形の西洋化、あるいは権力を使って進めていく植民地主義の側面、あるいは帝国主義と言われている側面もある。そういう両方のヨーロッパの違いがよくわかるのは、じつはイスラムよりも私たちの方だということができる。

近代化の反省のために
【鶴見】 反省的近代化というのは、非近代社会、あるいはいわゆる近代化の遅れた社会からみて、覇権的近代はわれわれを侵すのだ、そういう意見を取り入れて自己反省している近代ですね。そうすると、最初の人権と民主主義の発見という考えは、近代化のはじまりの時に見つけたんですね。反省的近代化という考えは、いま新しく起こってきた考えですね。いままで反省しなかった。ですから、この二つの区別があるということは非常によくわかるんですけれども、時代に違いがあるということをいくらか整理することが必要ではないでしょうか。

【武者小路】 この二つの近代西洋というものは、弁証法的にお互いに対立をしながらでてきたのだという点が大事です。二つの東洋、つまり非一神教と一神教の東洋みたいに、地理的に別のところにあるのではなくて、相互に批判しあいながら出てきたというところに西洋近代の面白いところがあります。
 覇権的な近代化を進めていったヨーロッパのなかに、覇権に抵抗する動き、もっと人間解放を大事にする動きが、覇権的になればなるほど対抗して別の価値観を主張してきた。ですから二つの西洋が別々にあるのではなくて、簡単に申しますと、悪い西洋があるお蔭でいい西洋がそれに抵抗してでてきた。

【鶴見】 それと、いい西洋が悪い西洋のために使われた。

【武者小路】 そうなんです。

【鶴見】 いまもそうですもの。女を解放してやると言ってアフガンの人たちを殺しているんです。

【武者小路】 まさにそうです。問題は非常に弁証法的に展開している。そういうダイナミックな関係というのは西洋近代の、ある意味ではすばらしいところでもある。それはわれわれの東洋にも、イスラムの東洋にも、いままではなかった。だけどこれからはやはり、われわれもそういう形で、グローバル化、あるいはアメリカの単独覇権を乗り越える必要がある。そのなかから、われわれも批判的な、あるいは反省的な近代化をする営みに参加できるようになる。つまりヨーロッパの近代が悪く、近代でないものがいいというのではなくて、非西欧的なわれわれの中にも悪いものがある。それを乗り越えて、しかもその中でどういうところがよかったかということを選り分けていく。われわれがそういう批判作業をすることで近代化をしていくとき、そこに自ずからヨーロッパの反省的近代化とはまた違う反省の再帰活動がでてくる。そしてこの両者がだんだんに収斂をするかもしれない。あるいは同じ点に収斂するのではなくて、むしろ多様であることをお互い確認するような形の収斂をする必要があるかもしれない。普遍的な原則は内発的発展を尊重するということで、お互いの違った道をお互いに侵さないという「棲み分け」をする、そういう知恵が必要になってきているということです。
(構成・編集部)

(むしゃこうじ・きんひで/国際政治学者)
(つるみ・かずこ/社会学者)