2003年12月01日

『機』2003年12月号:“赤ちゃん”から「人間」とは何かを考える 加藤晴久

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●世界で9ヶ国語に翻訳されている認知科学の権威の名著!

心理学ブームの時代に
 「ヒトはヒトにとって最大の関心事のひとつである。ヒトとは《ヒトとは何か》を問う動物である、と定義できる。サルはサルの何たるかを問わない(だろう)。ヒトのからだ、こころ、そして両者の関係(「こころ」すなわち「脳」なのか?)……。古来、ひとびとはこれらの問題を解き明かすことにこころを砕いてきた。だが、解けていない謎は多い。21世紀は宇宙の世紀、そしてヒトのこころの世紀だ、という識者は少なくない。」
 6年前の1997年、『赤ちゃんは知っている――認知科学のフロンティア』の刊行に際して本誌『機』に載せた文章の冒頭にわたくしはこう書いた。
 じっさい、この間の心理学ブームには目を見張るものがあった。各地の大学で心理学関係の学部学科が続々と新設された。学生募集に有利だからという台所事情もあるが、それもこころや脳への関心の高まりがあればこそである。また、乳幼児の認知能力についての研究もさかんに行われているようで、その成果の一端は酒井邦嘉著『言語の脳科学――脳はどのようにことばを生みだすか』(中公新書)などによって紹介されているし、テレビ番組もいくつか制作され話題になったようである。
 認知科学誕生期のアメリカ・ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学で研究者としての訓練を受けた後、1967年以降、この学問をフランスに根付かせた先駆者であり、近年はイタリア・国際認知神経科学先端研究所所長に転じた本書の著者メレール氏も2002年12月に産経新聞社主催の国際シンポジウムにメイン・スピーカーとして招聘されたり、日本の研究チームと共同研究を推進したり、老いてますます盛んなところを見せている。

「人間の本性」をとらえる
 本書は乳幼児の視覚、聴覚、空間と物体の認知、自己と他者の認知、そして言語獲得の過程を、自他による豊富な実験例を挙げつつ叙述し、認知科学の方法とこれまでの成果を紹介している教養書である。わたくしは増茂氏とともに、まず「言語習得論」演習の教材として、本書を読んだのであるが、同時に原タイトル《Naietre humain》「人間として生まれる」が示しているように、人間とは何かを問う著者の一貫した姿勢に強く惹かれた。
 わたしたちは普通、自分が言うこと為すことは、「こころ」「精神」または「意識」と呼ばれる実体的中枢が自分のなかにあって、それがそれぞれの器官に指令を出している結果であると考えているが、メレールらによると、人間の本性 nature humaine を構成する認知能力や言語能力は人間という種に固有の遺伝形質によって決定されているのだ、ということになる。また、特に人間の心的活動はそれぞれがひとつの能力を担当し、自律的に作動する複数の機能的単位(モジュール)から構成されているのであって、均質なひとつの実体としての「意識」(「ホムンクルス」)なるものは存在しない、ということになる。
 このようなゆゆしい哲学的射程をも持った書物だが、幸いにして大学の心理学の講義や演習に好適な書として使われたりして好評を博してきた。わたくしたち訳者が特に嬉しく思ったのは専門家の方々に高く評価されたことで、たとえば東京大学医学部の榊原洋一氏は「気楽なタイトルに誘われて読み始めたが、数ページも読まないうちに、これはたいへんな本だと気がついた。……乳児の発達についての明快な語り口に引き込まれて、まさに目からうろこが落ちる思いで一気に読んでしまった」と評してくださった。
 新しいこの版が初版と同じく広く読まれることを心から願っている。

(かとう・はるひさ/恵泉女学園大学教授)