2003年11月01日

『機』2003年11月号:愛と欲望の戯れ――『金(かね)』刊行にあたって―― 野村正人

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 『金』。それにしてもなんとも無愛想というか、そのものずばりの題名だ。もっとも『ルーゴン=マッカール叢書』の中には、『大地』だの『夢』だの『壊滅』だのと、同じようにひとつの単語からなる題名が並んでいる。現実を容赦なくえぐり取る自然主義の態度が現れているのか、妙な小細工を弄したタイトルよりも、逆にこの素っ気なさが人目を惹くのかもしれない。

十九世紀の金融小説
 『金』は第二帝政期後半のパリ証券取引所を舞台とした小説で、まさにこの時代の金融の問題を正面から取り上げている。ゾラは、現実に起きた銀行の破綻事件を下敷きにして、ひとつの銀行が急成長し、最後に破産するまでの物語を迫真のタッチで描いている。そこには、株価をつり上げて証券取引所を支配しようとする人たちと、株価の下落を画策する人たちの血で血を洗う対決がある。また両陣営のあいだには、味方の顔をしながら機を見て売り抜けようとする裏切り者や、相手側に情報を流して自らの立場を守ろうとする者がいる。さらに、主人公のサッカールを信じて投機を続け、最後に破滅する名もない庶民たちがそのまわりにいる。
 物語は小説の後半、サッカールとユダヤ資本の総帥との一騎打ちに至るのだが、それをゾラはワーテルローの戦いに重ね合わせ、刻々と移り変わる戦況を克明に描いていく。そこにはまるで戦争小説のような興奮がある。しかもそこで展開されるのは、日本が経験したあのバブル時代の狂乱にほかならず、我々としては、この小説が百年以上前に書かれた遠い国の作品とは思えない。その意味で『金』という小説は今でもなお生きている。もっとも『金』は、物語を通して経済を学ぶビジネスマン御用達の「経済小説」だと決めつけしまっては可哀想だ。金銭に対する時代の心性を描きつつ、第二帝政後半の社会を大きなスケールで見事に浮き彫りにしているからだ。

性愛の問題
 視点を変えてみると、この小説にはもうひとつ性愛の問題が浮かび上がる。ゾラにとって欲望と身体の問題はきわめて重要なテーマだったが、ここではもっと俗っぽく『金』は際物小説として読めてしまうと言っておこう。読者の側から自然主義小説にエロティックな興味が期待されていたのは否定できないだろう。主人公はその昔、強姦され「傷もの」になった裕福な家の娘を持参金と引き替えに後妻としたばかりか、若いときある女性に乱暴して妊娠させている。さらにその子供は貧民窟で成長し、格式ある貴族の娘に狼藉を働いて逃亡する。また一方には、冷感症にもかかわらず、秘密の金融情報を得るために、好色な女を装っては男たちに近寄る男爵夫人がいる。その男爵夫人と主人公の情事のさなか、もうひとりの愛人である検事総長が踏み込んでくる場面を克明に描いたところなどは大衆文学顔負けである。これらの点に関しては、金銭欲と結びついた性がとめどなく逸脱しているさまをゾラは描いたと、ひとまず言っておこう。
 私は翻訳をするにあたって『金』の英訳、Money, Sutton publishing 1991 をときどき参考にしたのだが、ひとつ興味深いことがあった。それは、先に述べたような性愛に関する部分が何の断りもなく訳文からことごとく削除されていることだ。ピューリタニズムの現れだろうか、唖然としてしまう。小説のひとつの柱、性の問題を消し去ってしまうとは、まさに「翻訳は裏切り」ではないか。

(のむら・まさと/東京農工大学教授)