2003年10月01日

『機』2003年10月号:華麗なる悦楽の三連祭壇画――『ムーレ神父のあやまち』刊行にあたって―― 倉智恒夫

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第一のパネル「聖職」
 ゾラの「ルーゴン・マカール叢書」第五巻『ムーレ神父のあやまち』は、叢書の中でも異色の作である。恋する司祭を主人公とする作品は、ラマルチーヌの『ジョスラン』に始まり、バルベー・ドールヴィイーの『結婚した司祭』など、これまでも数々ある。だがこの作品の真骨頂は、彼らのような宗教的な信仰ととく聖といった問題にはなく、もっぱら生の肯定や悦楽の讃歌にある。だから、三部よりなるこの小説は、そのまま華麗なる悦楽の三連祭壇画(トリプルティーク)と見立てることができる。第一のパネル「聖職」、第二のパネル「あやまち」、第三のパネル「贖罪」の三枚のパネルからなる三連祭壇画である。 「聖職」のパネルでは、ルーゴン家発祥の地プラッサンにほど近い小村レザルトーにおける司祭セルジュ・ムーレの牧歌的な生活が描かれている。知恵遅れの妹デジレと、なにかと口うるさいトゥーズ婆やに囲まれた素朴で簡素な日々の描写はなかなか好ましい。しかし田舎の教会での簡素なミサとはいえ、聖体皿(パテーヌ)、聖体覆(パール)、聖杯敷(コルポラール)ダルマチカ、スルプリ、ビレッタなどの聖具や祭服の描写がことこまかに書き込まれ、ゾラの博物誌的博引旁証の面目躍如たるものがある。終章に至って、狂信的母親の血を引くセルジュだけあって、神学校の頃からひそかに抱き続けている聖母マリアへの愛慕礼賛がほとんど冒とく的な性愛の狂乱にまで高まり、官能的発作のうちに失神して終わる。外面的静謐の陰で繰り広げられる内面の淫蕩がエロティックに暴き出される。

第二のパネル「あやまち」
 第二のパネル「あやまち」は、ヒエロニムス・ボッスに倣って「快楽の園」と言い換えても良い。失神したセルジュは、叔父パスカル博士によって救い出され、地上の楽園とも言うべきパラドゥーの館に運ばれ、外的世界から遮断されて原初の自然のままに育った美しい少女アルビーヌの手にゆだねられる。すっかり記憶を失ったセルジュは、アルビーヌに導かれて次第に生命力を取り戻していく。ありとあらゆる植物や花々が咲き乱れるこのエデンにおいて、二人はアダムとエヴァのように次第に性愛の欲動にとりつかれていく。ボタンの森、カーネーションの花壇、ワスレナグサの絨毯、クレマチスのカーテン、ヤグルマギク、ミヤコグサ、ウシノケグサ、ヌカボ、イチゴツナギなどで支度された「愛の閨房(アルコーヴ)」は、植物図鑑的豪華さで飾られる。それはまさに「花のシンフォニー」である。ここでセルジュの「あやまち」は完成する。しかし終章で、この悦楽の園にうがたれた破れ目から侵入したアルシャンジア修道士によって宗教的生活に連れ戻され、破戒の悔恨と罪の意識にさいなまれながら、セルジュは懺悔の生活にはいる。

第三のパネル「贖罪」
 したがって第三のパネルは「贖罪」と題することができる。セルジュは聖母マリアからも見放され、禁欲と懺悔と苦行に身を責めさいなまれる。アルビーヌはセルジュの子を宿しながら絶望のはてに、バラやスミレ、カーネーション、ヘリオトロープ、そしてヒヤシンスの花々で寝室を一杯に満たした中で死の床につく。アルビーヌはセルジュの祭式によってレザルトーの墓所に葬られる。その棺が墓穴の底に達した瞬間に、デジレの育てている牛が子をうむ。主題はエロスとタナトスの闘いである。だが、ゾラの真意は豊穣な自然の営みへの讃歌に傾いているように思われる。

(くらち・つねお/川村学園女子大学教授)