2003年09月01日

『機』2003年9月号: 思想史の新たな展開に向けて 三島憲一

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時代の陰鬱さを刷新するデザイン
 社会思想史学会の年報『社会思想史研究』が藤原書店のお世話になることになって今年で二年目になり、通算で号は「思想史研究の新たな展開にむけて」という特集を組んで今秋発行の運びとなった。
雑誌や本のイメージ化がますます進むご時世である。中身のテクストよりも、表紙やレイアウトや、パンチの効いたタイトルがすべてであるとうそぶく編集者も珍しくない。律儀に昔からの装丁とタイトルを守り通し、それなりに読まれているヨーロッパの専門書の世界とはかけ離れたことが日本では進行している。とはいえ、本はその発生のはじめからデザインやレイアウトと切っても切れないのも事実である。アカデミー版のカント全集の重々しさなどは、カントから吹いてくるさわやかな微風をかび臭さの中に閉じこめるために作られたとしか思えない。もちろん逆もあって、時代の陰鬱な空気の更新を目指した清新なデザインもある。仕事がら手にすることの多いズールカンプ書店の本は、暗い五〇年代を突破した、六〇年代の清新な空気を引き継ぎ、更新するデザインになっている。そうしたあれやこれを考えて、『社会思想史研究』も多少は清新なデザインとなった。
 一般にアダム・スミス、ヘーゲル、カント、ルソー、マルクス、ベンヤミン、ベルグソン、デューイなどの名前が並ぶ目次を見ただけで「野暮ったい」と思う日本の読者層の反応は、少なくともアメリカ・ヨーロッパの読者とまったくずれているが、そういうイメージにしてしまったのには、我々日本の思想史研究者の責任も少なくない。大体、天野貞祐式の「国民実践要領」のカントなどを戦後も可能にしていたのだから、若い読者がそういう名前からそっぽを向いて久しいのも理解できる。同じように旧マルクス主義(マルクスではない)のお経の繰り返しも多かった。社会思想史学会はその成り立ちから、そうした行き方への冷ややかな距離をエネルギーとしていたのだが、それがあまりはっきりしていなかったことも否定できない。

創造的で意味のある混乱状況
 脱皮を目指した新たなデザインは新たなアクチュアリティのまなざしでもある。学会動向、研究動向、書評欄も充実し、きつい批判も含む論争的な書評が多くなった。
 例えば「歴史認識形成」と題して寺田光雄氏がテッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』、菅原憲二・安田浩『国境を貫く歴史認識』、孫歌『アジアを語ることのジレンマ』などを縦横に論じている。孫歌の、丸山眞男のナショナリズムと偏狭なナショナリズムをいっしょにしてはならないという議論の紹介などは、梅津順一氏による中野敏男の『大塚久雄と丸山眞男』への鋭い批判などとも交錯している。戦後日本の左翼と文学の問題を扱った辻井喬『伝統の創造力』を論じた水田洋氏、あるいは同じく書評で扱われている小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』なども、暗黙のナショナリズムと、市民の日常経験を批判的に再考する姿勢に満ちている。共通するのは、もうじき六〇年になる「戦後」の時代のさまざまな知的軌跡をその複雑性において見ようとする姿勢である。ナショナリズムとネーションステートをめぐる議論は、非ナショナリズムだと思っていたものに潜む暗黙のナショナリズムが暴露されたり、開き直りから、生活重視に走る動きが出てきたり、混乱を極めているが、本号にもそれがよく現れている。混乱というとネガティヴに聞こえるが、あくまで概念が明らかになり、問題の所在が見えてくるための創造的混乱である。
 ヨーロッパ近代社会思想の研究を中心にしていた当学会が、それに関する丁寧で執拗な作業とともに、日本中心主義になることなく、戦後の我々の時代と切り結ぶ様子が浮かび上がってくる――こうした印象はひいき目だろうか。

(みしま・けんいち/社会思想史学会代表幹事)