2003年09月01日

『機』2003年9月号: パッシーの高台から――『愛の一ページ』の舞台を訪ねて―― 石井啓子

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『愛の一ページ』のパリ
 パッシー通りから一筋外れたレヌアール通り。その一角にある、うっかりすると見逃してしまいそうな小さな入口をくぐって、足下に目をやると、人ふたりがすれ違うのがやっとという、狭く急な階段が延々と続いていた。足を踏み入れるとしだいに底のない深みに沈みこんでゆくような不思議な感覚に襲われる。通りの名前を示す青いプレートにはrue des Eaux(オー通り)と記されている。『愛の一ページ』の主人公エレーヌが何度となく通った、あのpassage des Eaux(オー小路)だった。
 パッシーの高台とその下をつなぐ近道であるこの小路が主人公を導くその先にあるのは、閉ざされた部屋の窓からいつも眺めている果てしないパリの町ではなく、小路の底にある貧しい老婆の住む粗末なあばら家だった。医師アンリとの愛情が深まるきっかけとなったこの貧困の巣窟で、皮肉なめぐり合わせから、彼女は恋人とたった一度の契りを結び、その恋はひとり娘を嫉妬で苛み、やがて死に追いやることになる。「パリ小説」のひとつに数えられているが、『愛の一ページ』においてパッシーの高台を離れた主人公の生々しい息吹を感じることができる場所は、じつはこの一軒のあばら家だけなのだ。
 変動する社会のうねりも、近代社会の栄光も矛盾も、そこに暮らす人々の息遣いも、主人公のもとに届く頃には、遥かに遠い唸り声でしかない。広大無辺なパリの町は、パノラマとして、主人公の目を通してはじめてそこに存在し、主人公の感情や官能を纏うことではじめて息づき、オー小路を挟んだふたつの閉ざされた空間の中でひっそりと繰り広げられる静かなドラマの物言わぬ証人として、小説のもうひとつの主役となっている。
 主人公の心象そのもののように、時刻や季節を違え、光と影と色彩の効果を意識して表された『愛の一ページ』のパリは、さながら言葉によって描かれた印象派絵画でもある。風景だけではない。贅沢な邸宅や花咲き乱れる庭園で繰り広げられるこの小説には、ジャポニスムの影響を感じさせる着物姿の少女、庭のブランコを漕ぐ夫人や優雅な夜会に集う美しく着飾った男女の姿が、鮮やかに明るい光に彩られて次々に描かれてゆく。

静かな野心作
 ゾラと聞くと、フランス文学の専門家ではない同世代の友人たちは、一様にある種独特な反応を示す。文庫本で海外文学の翻訳を読むのがあたりまえであったころに学生時代を送った世代にとっては、次々と不幸に見舞われたあげくにアルコール中毒のために貧困の中で死んだ『居酒屋』のジェルヴェーズや、壮絶な最期を迎えたナナの姿があまりに強烈で、ゾラという名前には陰惨なイメージが消し去りがたく焼きついているようだ。
 『愛の一ページ』は、その『居酒屋』と『ナナ』の執筆の間を縫って書かれた、「休息と気晴らし」の逸品である。穏やかで、優しい色調の中に描き出されたこの一見つつましい小説は、大きな評判を呼ぶ一方で厳しい批判にさらされた前作とは鮮やかな対照をなす、まったく新しい境地を開く静かな野心作でもあった。この翻訳が日本でもゾラの新しいイメージが少しずつ広がる一助となればと願わずにはいられない。
 オー通りを降りきると、ひっそりとした小さな広場に出た。あとほんの少し歩けばセーヌの河畔だ。エレーヌはここからだってパリの町に踏み出せたはずなのに……。小路を引き返して高台から鳥瞰したパリが、心なしかいつもより悲しげに見えるような気がした。

(いしい・けいこ/フランス文学)