2003年09月01日

『機』2003年9月号:日本外交の過去と未来 小倉和夫

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半世紀を経て公開された外務省極秘文書「日本外交の過誤」を読む

外交家吉田茂の異例な試み
 白足袋に葉巻き。第二次大戦直後の混乱の中で食うや食わずの生活に追われていた人々にとって、吉田茂の白足袋と葉巻きは、宰相吉田の超然たる威厳のシンボルに見えた。しかし、白足袋と葉巻きは、同時に、秘かな抵抗と自負と誇りの象徴でもあった。
 自負――その中には、「戦争で敗れて外交で勝つ」と豪語していた外交家吉田の思いがこめられていた。
 一九五一年一月。朝鮮動乱の勃発と中共軍の大陸制覇のあとをうけて、アメリカの極東政策は大きな転換期を迎えていた。対日講話条約の締結、日本の再軍備と経済復興――そうした大きな課題が、日米関係をゆるがそうとしていた。そして、それは、日本の明日の針路を決める重要な選択の問題でもあった。
 四九年の総選挙に圧勝し、単独多数を制した自由党を率いる吉田は、日本の未来を決する課題にとりくむにあたって、過去をふり返る必要を痛切に感じていた。
 日本は何故、あの悲劇の大戦争に突入し、あの様な無残な敗戦を経験することになったのか。
 全てを軍部の横暴に帰し、軍国主義に全ての責任を負わすことはできない。戦争も平和も、外交の一環であったとすれば、悲劇の戦争には、外交の悲劇と外交の過ちとがからんでいたはずである。日本外交はどこで過ちをおかしたのか。そこをはっきりさせなければ、明日への外交を確立することはできない。
 かくて吉田茂は、異例な試みを外務省に命じた。外務省の中枢をしめる最も優秀な若手外交官自身に、過去の外務省、すなわち彼らの先輩たちの政策、態度、立場を客観的に批判させることにしたのである。

敗戦後の日本外交の原点
 若手外交官による過去の外交政策批判――その結晶が、「日本外交の過誤」という五十頁ほどの文書であった。
 こうした経緯によって作成されたこの文書は、いわば第二次大戦後の日本外交の原点を明示したものと云える。
 この原点とは何か。それは、日本の外交、なかんずく、アジア外交に大義名分を持たねばならないこと、そしてそのために国民世論の支持をとりつけねばならないこと、であった。
 日本外交は、第二次大戦後、果して、こうした過去の教訓を真に生かした政策を遂行してきたであろうか。朝鮮動乱はさておくとしても、ヴェトナム戦争、中国と台湾の抗争、アラブ・イスラエル紛争、湾岸戦争、そして今回の対イラク戦争――こうした主要な国際紛争に対して、日本はいかなる大義名分をかかげてきたであろうか。
 また、国民世論も、全体としては、常に長いものに巻かれよ式の、大勢順応、とりわけアメリカの戦略への順応に慣れてきたのではなかったか。
 こうした観点に立つ時、「日本外交の過誤」なる文書は、一九三一年から始まった「一五年戦争」時代の外交の反省を書いたものであるにとどまらず、一九五〇年以降の戦後の日本外交の跡をふりかえるにあたっても参考とすべき文書と云っても過言ではない。 しかし、この文書の真の意義は、我々の未来に関係している。
 未来――そこでは、憲法改正の是非、日米同盟と米軍の駐留のあり方、さらには近隣諸国との経済圏の形成など、大きな問題が検討されよう。その時、我々が外交政策の選択を誤らないためには、五十年前に検討された、戦前の「外交の過誤」をもう一遍十分かみしめてみることが必要である。
 何故ならば、第二次大戦に至る日本外交の「過誤」の始まりは、英米との協調外交の時代にその根を持っていたからである。何故日本は、英・米と協調しようとしたのか、そして、何故日本は、その協調路線から離れざるを得なくなったのか、それらの答えへのヒントが、「日本外交の過誤」なる文書の中に隠されている。そして、その答えこそ、明日の日本外交、なかんずくアジア外交を考える基礎となるべきものである。

(おぐら・かずお/青山学院大学教授)