2003年01月01日

『機』2003年1月号:東アジアの思想家、河上肇 三田剛史

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近代中国に最大の影響を与えた日本人思想家

河上肇との出会い
 『貧乏物語』の作者として『岩波文庫解説目録』で見かけたのか、戦前期のマルクス経済学者として日本史の教科書でその名を覚えたのか、私が河上肇(一八七九~一九四六年)の名を初めて知ったのが何時のことか、今となっては定かでない。いずれにせよ、私にとってしばらくは、河上肇も歴史上の人物の一人に過ぎなかった。ペレストロイカの行き詰まり、六・四天安門事件、東欧諸国の「自由化」とベルリンの壁崩壊、ユーゴスラビア内戦、ソビエト連邦解体などがたて続けに報じられ、私の大学時代の始まりは、共産主義・マルクス主義陣営の瓦解と資本主義・自由主義陣営の勝利、社会主義への幻滅が喧伝されていた時期であった。自分が昔のマルクス経済学者を研究しようとは、思いも寄らぬことであった。 大学院修士課程に入学した一九九五年初夏、研究テーマを模索していた私は、独創的思想家を求め、河上肇の『資本主義経済学の史的発展』(弘文堂書房、一九二三年)を繙いた。個人主義の経済学の歴史、利己心是認の歴史として、経済思想史を自らの言葉で語る河上肇の叙述の個性に、一読して強く惹きつけられた。爾来七年間、河上肇の学問と思想、およびその中国への影響を追究してきた。この度、拙いながらもその成果を一書にまとめることが出来た。

古今東西にわたる知の源泉
 河上肇は、中国古典や近世期日本思想に造詣が深く、中国古典を淵源とする伝統を思想の基底に有しつつ、近代西洋の社会科学を受容していった。河上肇は、最終的にマルクス・レーニン主義に接近していったが、教条的マルクス主義者になったのでは決してなく、「労働の遊戯化」や「宗教的真理と科学的真理」の問題など、現代でもさらに考究されるべき独特の論点を残した。河上肇の生涯に一貫しているのは、知の源泉を古今東西に求め、独自の学問体系を築き上げ、貧困、疎外、戦争などの現実問題を解決していこうとする志であった。 河上肇の著作は一九一九年頃から陸続と中国語に翻訳され、京都帝国大学では少なからぬ中国人留学生が河上肇の下に学んだ。河上肇の人的学的遍歴は、人と書物を通じて同時的に中国へ流布していた。河上肇の著作の翻訳出版は、人民共和国成立後も続き一九八八年にまで及んだ。河上肇の思想と学問は、李大釗、毛沢東、周恩来、郭沫若らにも影響を与え、中国マルクス主義の発展と共産主義運動の展開に寄与した。

近代中国と河上肇
 古来日本は中国文明からの影響が大きかったが、十九世紀末以後は中国が日本から近代文明を摂取する動きも始まった(拙著付録「中国語訳日本社会科学文献目録稿」にその一端が示されよう)。古代以来の中国文化の日本に対する影響と、近代以後の日本思潮の中国への伝播からなる日中学術思想史の環を、河上肇はいわば一身に体現している。河上肇は、日本近現代史上においてのみ理解すべきではなく、東アジアとりわけ日中の交流史に位置づけることによってこそ、その真価を問うことが出来る。 河上肇が前世紀前半に取り組んだ問題を、現代社会がいまだ克服できずにいる中、未完に終わった河上肇の学問・思想と、その影響を検証することは、なお意味があるというべきではなかろうか。

(みた・たけし/経済思想史)