2002年12月01日

『機』2002年12月号:「われ」の発見 鶴見和子

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現実の「われ」を踏み越え、「われ」の根源に迫る「作家の現場」で語り合う!

貴縁によって
 現代歌人の先端をきっておられる佐佐木幸綱さんと歌について対談したいという大それた望みをわたしはいだいた。幸綱さんはこころよく引き受けて下さった。それはわたしが(祖父)佐佐木信綱先生の弟子であったという貴縁によるもので、まことにありがたいことであった。
 いつも対談のあと、もっと勉強しておけばよかったと後悔する。今回はとくにその悔いが強い。対談の前に、わたしは『佐佐木幸綱の世界』(全十六巻)のうち、「歌集篇」は読んでいたが、「古典篇」と「評論篇」はほとんど読み残していた。
 今年の五月に、わたしは大腿骨骨折をして、七月のはじめに手術をうけた。比較的はやく傷が直り退院して、現在暮している宇治市の高齢者施設の自室にかえったその直後に脱臼して再び入院した。今度は大事をとって病院から直接自室にかえらず、同じ施設の診療所の病棟で一か月近く静養した。その間、医師から仕事を禁じられ、外界との接触も避けた。そこは宇治市内の病院とくらべて、まるで山荘にいるようで居心地がよかった。
 その機会に、わたしはもう一度『佐佐木幸綱の世界』の「歌集篇」を年代順に読み、さらに「古典篇」と「評論篇」をゆっくり読んだ。
 対談にのぞんで、佐佐木幸綱さんは、いくつかの問題を出して下さっていた。その中に「明治以後の短歌における『われ』とはなにか」という問いかけがあった。しかし、その時わたしはその意味がはっきりわからなかった。

「われ」とは何か
 対談の中で佐佐木幸綱さんは、中央集権制の下で「われ」が意識化されることを、万葉集の時代の律令制と、明治期の天皇制の成立とを対応させて論じている。このことは、「抵抗としての東歌」という佐佐木幸綱さんの仮説(『東歌』)をよむことによってはっきりした。この仮説の論証は、歴史的であると同時に、社会学的であって、大へん教えられた。
 「われ」について、わたしがもっとも深い衝撃を受けたのは、「根拠へ向けて」(『佐佐木幸綱の世界7 作歌の現場』第三章)である。とくに、明石海人の歌集『白描』を例にとっての言説である。
 「癩は天刑である」に始まり、「癩は天啓でもある」に終る『白描』冒頭の言葉が引用されている。これは重度の身体障害を伴う脳出血というわたしの病気にも適中する。(傍点=著者)
 「一人称詩型」である短歌は、日常のわれから出発して、われの本質に迫ることが重要であり、かつ困難であることを、佐佐木幸綱さんは、明石海人の『白描』の第一部「白描」と第二部「翳」からそれぞれ二首の歌をとり出して、対応させて論じているのに感動し、また触発された。
 現在、重度身体障害者であるわたしは、日常の私の身体状況を表現した歌ばかり作っているのだが、どうしたら日常のわれをのりこえて、自分の根っこに迫れるのか、そして、根っこからうたう歌を詠めるのか、究極の問題を佐佐木幸綱さんからいただいた。このことは、内発的発展の内発性の探究につながってくる。
 さらにいえば、現在わたしは、免疫学者の多田富雄さんと往復書簡をかわしつつある(季刊『環』第十号~)。個体の生命を維持する意味でも身体の内部の「自己」が「非自己」とたたかいながら、じつに創造的な働きをしていることを免疫学の立場から多田さんは論じている。「われ」(「自己」)とはなにか、という問題は、歌学にも免疫学にも、そしておそらくその他の生物にかんするあらゆる学問、芸術に通底する基本的な問題なのであろう。そのことについては『対話まんだら』全体を通して考えてゆきたい。

二〇〇二年十一月十六日

(つるみ・かずこ/思想家)