2002年12月01日

『機』2002年12月号:一哲学者が語るヨーロッパ フィリップ・ラクー=ラバルト (聞き手)浅利誠

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EU統合が進行する中、今こそ、「ヨーロッパ」を問う

「一哲学者が語るヨーロッパ」
 ──あなた(ラクー=ラバルト)は1992年11月6日の『ル・モンド』紙の記事のなかで、「ヨーロッパはまずは哲学的概念であったし、今でもそうである。」という指摘をされておられますが、ヨーロッパをどのように定義なさいますか。

「ヨーロッパ」とは哲学的概念である
 私が〔『ル・モンド』紙に書いたように〕ヨーロッパとは哲学的な概念であるというとき、私のいいたいのはかなり単純なことで、一つは、ギリシア的発明というのは、やはり「哲学」と呼びうるタイプの思考の発明であるということです。もう一つは、ヨーロッパとは、ギリシア人がかなりの部分を東洋から拝借した「理論的実践」――こういう用語を使っておきますが――に直結する何ものかであるということです。ギリシア人は東洋から多くのものを借用しました。ごく早い時期にエジプト人との接触によって得たものだけでも、幾何学、数学についてのある種の観念〔を基にした〕科学的実践がありますが、この実践は、今日の私たちなら、近代的概念でいう「技術」と呼ぶだろうものに伴われて、相当な発展を遂げました。しかし、やはり東洋から借用したものではありました。ただし、もちろんギリシア人もまた発明家であり、とくに軍事技術の発明においてつとに有名になりました。ペルシア人相手の海戦において、遠距離から軍艦を焼き払うために使われた有名なアルキメデスの鏡の発明などは、語の近代的な意味における技術的な武器の発明です。その意味では、一種の凝縮がこの小さなギリシア半島のなかで開始されたのです。この半島は、その近傍において帝国的になったばかりではなく、当時知られていた世界へと、少なくともアレキサンドリアまで、遠征にでかけました。ここにあるのは一種の精神の凝縮であり、さまざまな科学‐哲学的あるいは哲学‐科学的文明の歴史のなかでも、比類のないものであると私は思いますし、これは以後も永きにわたって存続することになります。(中略)

ヨーロッパの脊柱としての哲学
 十世紀―十二世紀〔中世〕の初頭、アラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒が、哲学の伝統のなかで混じり合うことになりました。このようにして、哲学的伝統が、フランスから地中海の国々を通ってロシアにいたるまで維持されたのです。精神的ないしは知的な伝統が維持されることになったわけです。
 この伝統は、一面では、ドイツにおける場合のように、無言の、ときには無意識の亀裂に覆いをかぶせるようにして維持されました。いずれにしても、人が手っとり早くギリシア‐ローマ的ないしはヘレニズム‐ローマ的と呼んでいる文化の拡張過程において、このような亀裂がうみ出されたことはたしかです。しかし、にもかかわらず、ヨーロッパは哲学を発明したのであり、ヨーロッパは哲学を中心に維持されたのです。哲学的伝統こそ、ギリシア以来のヨーロッパの歴史の唯一現実的な脊柱なのです。
 たとえばヨーロッパの宗教もまた、私にいわせれば、哲学的起源をもった宗教なのです。その意味では、人がヨーロッパと定義するもの、人が今日ヨーロッパと呼んでいるもの、それは哲学の国、人が哲学と呼ぶその思考形式の国であると私は思うのです。この国にはそれ固有の歴史、リズムがありました。たとえばキリスト教が支配的だった諸世紀は、さまざまな神学の驚異的な技巧がみられはしましたが、やはり足踏み状態にありました。その後、教会に対する――私としては、むしろ教会のといいたいところですが――の最初の兆候が現れるやいなや、再び哲学的伝統が活性化し、変形され、様々な驚くべき〔飛躍的〕断絶を知ったのです。しかし、同時にまた、伝統を真に保ちながらそうだったのです。そして、この伝統こそが一つの科学‐技術的な企図の担い手であり――このことはギリシア人においてすでに現れていたし、またある程度はローマ人においても現れていました――、ついには世界を支配するに至ったということが判明していきました。

「世界化」に成功した唯一の帝国主義
 アテネ連邦、それに続いて、アレキサンドリアを含めた、マケドニア、東洋などの(束の間の)征服、これだけがキリスト教以前に存在した唯一の帝国主義なのではありません。他にももっとありました。中央アジアや近東にも大帝国がありましたし、極東にも巨大な帝国や権力がありました。しかし、それでもなおかつ、ヨーロッパ帝国主義――なぜならこれはまさに帝国主義だからです――が、今日いわれるような「世界化」に成功した唯一の帝国主義なのです。つまり自分の文化をほぼ全世界に押しつけることに成功した帝国主義なのです。この帝国主義化は、他の文化の大規模な破壊を代償にして、あるいは被征服者側の ――私はとりわけ極東のことを念頭においています――多少ともうまく先導され、受諾された和解(=妥協)によって実現しました。しかし、なにはともあれ、その結果として、ヨーロッパ文化の世界化が帰結しました。したがって、世界的であるとは、哲学的な思考形式において世界的であるということになるわけです。(中略)
 以上のような見方は、当然ですが、哲学そのものについてのある種の省察、ヘーゲルの哲学史、あるいはニーチェ、ハイデガーといったドイツ人の省察に多くを負っています。しかし、たんにドイツの伝統ばかりではなく、ヴィーコや十八世紀の英仏の政治思想家の省察にも、たとえばモンテーニュに多くを負っています。
 モンテーニュの時代とは、西インドつまり南米インドの征服の時代でしたが、彼は実によくものごとを見、かつ理解していたと思うのです。抵抗しようと思えばできたはずの彼らが、なぜ西洋による征服を受け入れたのか。モンテーニュには、これは謎でした。なぜなら、インカ、アステカ、トルテカなどは巨大な帝国だったわけで、技術的なものではなかったにしても、彼らはあらゆる手段(兵力、経済的抵抗、富)をもっていました。スペインやポルトガルの征服に抵抗するだけの手段をもっていました。それにもかかわらず、彼らは抵抗しませんでした。
 一方、北米インディアン、彼らはでしたが、彼らの場合は別です。彼らはただ単に虐殺されたのです。(中略)ところが南米のインディアンの場合は大きな謎です。なにしろ真の文明だったのですから。文字、建築、芸術、文学、かなり複雑な行政組織もあり、資本という意味での空前の富ももっていたのですから。(略)(浅利誠訳)

2002年8月31日/グルノーブルにて
(Philippe Lacoue-Labarthe/ストラスブール大学名誉教授)
(あさり・まこと/仏国立東洋言語文化研究院助教授)