2002年11月01日

『機』2002年11月号:日本思想の母胎 北沢方邦

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津田左右吉、丸山眞男をはじめとする従来の日本思想を根底から覆す!

感性の知としての思想
 近代科学はいたるところで破綻し、その限界を露呈しつつある。自然科学の根幹をなす数学が、自然現象の基本にある非線形性を全体的に解明する方法をもっていなかったことなどがその典型であるが、人間科学も例外ではない。
 とりわけ近代の人間科学が、人間の思考体系を全体的にとらえる方法をもたなかったことは、驚くべきことといわなくてはならない。たしかに思想史なるものが存在し、また近年は思想史から脱落してきた民衆の思考をあつかう民衆史も登場している。だがそのいずれも、史料すなわち《書かれたもの(エクリチュール)》に依拠し、後者はせいぜい民衆の生活様式に目をむけるにすぎない。
 《書かれたもの》とは、いうまでもなく人間のプラクシス(意識的行為)とそれを統御するいわゆる理性の所産であるが、むしろ人間の全体的な思考体系は、プラティーク(無意識的行動)とよばれる領域の知を基底とし、それとプラクシスとの弁証法のうえに成り立っている。狭義の思想も、このプラティーク・レベルの《暗黙の知》を前提としているといってよい。とりわけわが国では、それは《感性の知》または《感性の論理》と同義語である。日本の思想または日本人の思想とは、この感性の知そのものであり、書かれたものは、その表層のあらわれである。
他方、高度成長期には海外で悪名高い《ニホンジンロン(日本人論)》なるものが流行したが、それは科学というよりも経済大国のナショナリズム・イデオロギーの表現であり、そこで扱われた日本人の独自性なるものも、欧米白人との皮相な比較にすぎず、日本の思考体系の解明にはまったく寄与しえない態のものである。

「モノノアハレ」と「ハフリ」
 本書『感性としての日本思想』は、丸山真男に代表されるような「日本の思想」論や従来の日本人論を超える立場から書かれている。われわれの祖先の精密な自然観察の暗喩にほかならない神話が、すでに日本の思想の母胎であるが、そこからモノノアハレとハフリという座標軸をとりだし、またわれわれの儀礼や芸能、とりわけ田楽と猿楽という二大類型が母性原理と父性原理の表現であることを分析し、これらの座標軸や原理が、いかにわれわれの歴史をつらぬいているかを明らかにしている。
 すなわち、モノノアハレはヒトやモノへの共感の心、さらに美や道徳的行為への賛嘆の心を示す座標であり、ハフリは時間軸として、すべてのものの死と再生の循環をあらわす。また母性原理と父性原理は、万物をやしなう母なる大地の力と、ヒトやモノを規制する父なる天のきびしい法を意味し、両者の均衡、つまりジェンダー・バランスが世界の豊饒と安定をもたらすという、人類共通の思考からきている。

急激な近代化とグローバリゼーション
 しかし残念なことに、明治以後の急激な近代化は、こうした宇宙論的な思考体系と、それにもとづいて構築された社会体系を崩壊させ、日本人に深刻なアイデンティティ危機を引き起こすこととなった。とりわけ近年のいわゆるグローバリゼーションの到来とともに、混迷と危機はいっそう深刻化している。本書は、この問題への解答もこころみている。

(きたざわ・まさくに/信州大学名誉教授)