2002年11月01日

『機』2002年11月号:人類学の新たな挑戦 森山工

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人類学の新たな展開を画す『同時代世界の人類学』11月刊行!

フランス人類学の変貌
 西欧近代に成立した学的体系としての人類学は、遠く隔たった、自分とは異なる人々の文化を専門的にあつかい、それを解釈・説明するものとして自己規定してきた。しかし、一九八〇年代以降のフランスでは、人類学のこのようなあり方を人類学の内部から積極的に変化させようとする動きが顕著である。それは、「遠く隔たったもの」の人類学から、「身近なもの」の人類学への変化である。それにより、フランス本国で、それもより一般化しつつある都市的な環境のただなかで、観察・調査をおこない、現代社会のまさしく現代的な諸側面を対象化するさまざまな研究が次々と産出されつつある。
 他方で、交通・通信・情報の各分野における飛躍的な技術革新は、二十世紀末にいたっていわゆるグローバリゼーションという全体的な状況ないし過程を生んだ。それにより、現代の諸世界は相互に直接・間接の連関におかれ、たんに「共時的」というのでない、「同時代的」なあり方を呈している。『同時代世界の人類学』でマルク・オジェが提起するのは、人類学者が自分の間近の現代的な現実に観察の眼差しを注ぎつつ、その背景にさまざまな尺度の広がりをもって立ちあらわれるこの同時代的な世界、もしくは同時代的な諸世界を把握することにほかならない。

「スーパーモダニティ」と他者性の危機
 オジェによれば、現代とは三つの過剰によって特徴づけられる時代である。出来事の過剰(歴史的な出来事が毎日のように生起し、歴史が加速化する)。イマージュの過剰(世界各地の出来事がリアルタイムに伝達され、空間が縮小化する)。個の過剰(かつて何らかの集団がになっていたコスモロジーが個人レベルに定位されるようになる)。こうした現代に特有の「過剰」を表現するため、オジェは「モダニティ」との断絶を示唆する「ポストモダニティ」という語をしりぞけ、「モダニティ」が過剰に進展した状態という意味での「スーパーモダニティ」という用語で現代世界を性格づけている。そこにおいては、集団的コスモロジーの支えを失った個人が(ひとり個人が)、日々生起する世界各地の出来事に対してイマージュ(映像)を通じてのみ向かいあう状況が一般化し、したがって他者とイマージュを通じてのみ関係をとりむすぶ状況が一般化する。これをオジェは「世界のスペクタクル化」と呼ぶが、このような状況は、個人がいだく他者像を平板化・平準化・抽象化してしまい、個人が他者との関係を思考することを困難にし、ひいては自己自身との関係を思考することを困難にする。本書の基底をなすオジェの問題意識には、このような他者性の危機と、それが必然的にもたらす同一性の危機への尖鋭な認識があるといえる。

同時代性と人類学
 本書では、植民地支配下で勃興したコートジボアールの予言者運動、現代フランスにおける政治の儀礼性、フランスの都市郊外におけるアイデンティティの危機、都市としてのパリにまつわる経験の変化など、多彩な事例に議論の手がかりをみいだしつつ、「同時代世界の人類学」の一つの試みが提起されている。日本では構造主義とのかかわりで(のみ)論及されることの多いフランスの人類学であるが、構造主義以降のフランス人類学のあり方、しかもその最近の動向の一端を示すものとして、本書は注目すべき一冊である。著者のオジェは、レヴィ=ストロースやバランディエの次世代に属する人類学者で、西アフリカ諸社会の人類学的研究を出発点とし、独自の権力・イデオロギー論を展開したことで知られる。現在のフランスを代表する指導的立場の人類学者である。

(もりやま・たくみ/東京大学助教授)