2002年07月01日

『機』2002年7・8月号:「満洲・満洲国をいかに捉えるべきか」 山室信一

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一九世紀以来の近代世界史のなかで、“満洲”を捉え直す!

満洲とは何だったのか――戦後東アジア、近代世界史、二一世紀の諸課題、いずれを考える上でも満洲・満洲国が重要な意味をもつと述べる山室氏へのインタビューの一部を掲載する。(編集部)

日本側の地政学的発想
 ――まず世界史の中で満洲という場をどう捉えたらよいのか。十九世紀の中葉から欧米列強の対アジア進出というものが始まります。大国ロシアが南下する動きを見せ、他の欧米列強も中国進出、満洲進出を狙う。そうした中、日本も満洲に進出する。この日本の動きをどう考えればよいでしょうか。


山室 非常に大きな問題なのでいろいろな観点からの答え方が可能かと思いますが、例えば、一八九〇年の第一議会で山県有朋が演説した「利益線論」と「主権線論」というものがあります。これは基本的に井上毅が起草したものですが、主権線というのは、国境のことで、その国境を守るためにはもう一つ先の利益線を守らなければならないという空間認識に基づく国防論です。朝鮮を支配すると、もう一つ先に利益線を設定しなければならない、つまり朝鮮の先の満蒙も支配しなければということになる。そうした日本の空間認識の中では、どうしても国境の先にもう一つの緩衝地帯をつくるという発想になり、そうでないと安全でないということになる。
 少し危ない見方ですが、日本の地政学的な条件の中で、朝鮮半島は、日本の脇腹につきつけられた匕首であると。そしてその匕首に来るのはロシアしかない。それを防ぐためには朝鮮をとらなければならない。そして朝鮮を守るためにはその接壌地域である満蒙にまでいかなければならない。こうした必然性みたいなものを考えざるをえなかった日本側の地政学的な発想があったことは事実で、これが「満蒙生命線」という議論に繋がっていきます。
 他方、日本の進出が問題になるのは、義和団事件以降です。つまりロシアが事件以後も軍隊を退かずに居座りつづける。それに対し日本にいた留学生が中心となって、拒俄義勇隊を結成しますが、清朝そのものはそれに対してむしろ抑える方向に出て、自分で振り払おうとはしなかったという事実がある。
 これが、孫文は革命援助と引き替えに日本が満洲を支配してもいいという約束を与えたという文脈につながっていくわけですが、中国からすれば、満洲というのはの地、つまり文明の地ではない、という発想がある。もちろん清朝にとっては自分たちが起こった発祥の地、龍興の地として永く封禁の地としていたのですが、清朝も二七〇年くらい経っていると、故地の防衛にそれほど価値を見ていなかった。そういう意味でこの地域にある種のエアポケットが出来ていたことは事実です。そこにロシアが入ってくる。
 同時にまた日露戦争では日本を支援したアメリカも、戦争直後にハリマンが満洲の鉄道買収を図るなど、門戸開放政策によって、自らは植民地支配はせずとも、国務長官ノックスが述べたように日本を満洲から「いぶり出し」て経済的な支配力を及ぼそうという動きに出る。こうした状況に対処するために日本としても満洲から退くに退けない局面に入っていきます。


第一次世界大戦のもった意味
山室 ただ世界史的な条件で一番重要なのは、第一次世界大戦の衝撃です。この戦争ではじめて人類は総力戦体制で戦争を行った。石原莞爾などはとくにそのことを意識したわけです。戦争に勝つためには、経済力、生産力を上げなければいけない。とりわけそのなかでも石炭と鉄が、当時の武器を生産するのに最も重要な資源でしたが、それは日本にない。それを獲得できるのは満洲である。そういう形で総力戦体制が与えた影響は甚大で、そこからおそらく異なる段階に入ったのではないかと思います。二十世紀初頭の後藤新平の時代の満洲と、第一次大戦以後の満洲は、決定的に意味の異なる空間だと考えた方がいい。後藤などの時代の満洲は大豆などの農業生産地、穀倉でしかないわけですが、第一次大戦後には、総力戦体制を遂行するための最大の戦略物資基地になる。
もちろんこれについては、別の考え方もあります。石橋湛山が主張したように、領有するよりは貿易した方が、結局、安定的に資源を確保できるという考え方がある。日本があれほど膨大なコストをかけて統治して、結局、ペイしたのか。むしろ占領しなくても、開発して貿易をして、日本にもってきた方が目的の資源を確保できたかもしれない。
 ただし、それはその後の経済的ブロック化の歴史を考えると、必ずしもそうはいかなかったろうともいえます。実際、日本が仏印に進駐したとき、アメリカは石油や鉄の輸出を停止して資産凍結をしました。ですからあの当時の世界的状況のなかでは自由貿易だけでうまくいったかどうかはやはり問題になる。そういうことを考えると、陸軍が、石原莞爾が考えていたように、満洲を植民地として確保しなければ、鉄と石炭を安定的に供給できないと考えたとしても、当時の状況の現実認識としてはあながち間違いではなかったともみなせます。だからといって植民地統治をしていいという意味では決してありません。ただ満洲を確保しなければならないと考えることは、第一次世界大戦後の世界史のなかでは、ひとつの選択肢ではあったと思います。
 いずれにせよ人類史において第一次世界大戦は決定的な意味を持ちました。第一次大戦を抜きにしては、二十世紀の歴史について何も議論はできないと思います。民族自決問題にしても、ナチスの問題にしても、それを抜きにして考えることはできない。その後の人類がここまで来てしまった、こうなってしまったことの起源がそこにあるわけです。
 当初は「クリスマスまでには帰ってくるよ」と四〇日くらいで終わると思われていたのが、結局、四年に及ぶ泥沼の戦争になり、しかもあらゆる生活物資が注ぎ込まれることになった。戦争とか何とかいう以前にこれは人類史にとって、人間の存在そのもののあらゆる意味での転換点になった。人間そのものが歯車に使われてしまう。生活全体も日常から戦争にすべて包み込まれてしまう。そのことの意味は当然、満洲国を考える上でも決定的に重要ですし、日本の近代史を考える場合も同様です。とくに日本の植民地統治問題の議論において、これまでそうした観点が少し弱すぎたと思います。



支配形態からみた満洲国の意味
 ――一九九六年に書かれた「植民帝国・日本の構成と満洲国」という論文の中で、山室さんは「統治様式の遷移(succession)」と「統治人材の周流(circulat ion)」という観点から日本の植民地支配を分析されています。どういう狙いからなのでしょうか。


山室 大事なことは満洲国は、満洲国だけを取り上げては問題にできないということです。いわゆる満洲国史という自己完結的な形でこれを問題にすることはもはや意味をもたない。日本帝国システムの一部として満洲国を位置づけなければならない。
 これまでも日本帝国の問題というのは、朝鮮、台湾、そして大東亜共栄圏という形で取り上げられてきましたが、満洲国を抜かした形で考えられてきました。そうではなく満洲国がもっていた定点的な意味を捉え、そこに統治様式や統治人材が流れ込み、そしてそこから流れ出ていったことが、日本の帝国システムを形成してきたという観点をとらないといけない。
 さらには満洲国を東アジア世界のみならず、近代世界史のなかで位置づけなければならない。ただ、そうした研究を全体としてどういう枠組みで行なうか、またどういう資料を使えばよいかという問題はあり、なかなか難しい。


 ――統治様式、統治人材という点で、満洲国成立の前後で変化はあったのでしょうか。


山室 満洲国の成立前後で支配様式は大きく異なりました。はっきりいえるのは、関東軍の持っている地位が決定的に異なってくることです。満洲国成立以前には、よく逸話として言われることですが、満鉄総裁の宴会などでも関東軍の将校や司令官は末席にいた。つまり非常に低い地位にあった。あくまで満鉄の沿線の警備をするというだけの地位しか与えられていなかった。それが第一次世界大戦後の世界で、日本の総力戦体制を支える満洲という位置づけがなされてくるなかで、関東軍の地位が次第に高まってくる。
 また第一次世界大戦は、もうひとつ大きな意味をもっていた。民族自決主義の世界的な蔓延です。そういうなかで中国においてもナショナリズムが高揚し、満蒙権益回復といった国権回収運動が起こってくる。それに対し武力でもって抑えるという対応をとるかぎり、中国のナショナリズムが高揚すればするほど、関東軍の地位が高まり、日本もさらなる権限の拡大を要求し、武力も増強していくというスパイラルに入る。第一次大戦中の一九一五年には、対華二一カ条の要求を突きつけ、日本人の顧問などを入れて満洲を支配しようとします。日本と中国の関係ということでいえば、この時点で日本の侵略の意図が露骨に追求される段階に入った。現在でも中国においてはこの二一カ条要求は、日本の侵略の象徴として扱われています。

(後略:全文は『環』10号に掲載)