2002年07月01日

『機』2002年7・8月号:日中関係の未来のために 劉徳有

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中国文化部高官による戦後日中交流史の知られざる第一級史料を刊行!

毛沢東や周恩来の通訳を
 さきに中国で出版された拙著『時光之旅――我経歴的中日関係』(商務印書館)がこの度『時は流れて――日中関係秘史五十年』(藤原書店)というタイトルで日本語版に“変身”して上梓される運びとなったことは、著者にとってこの上ない喜びであり、感無量である。
 私はどちらかというと暢気な方で、いつも自分では若いつもりでいたのだが、気がついてみると、いつの間にか齢すでに古希を過ぎてしまった。じつは、私は一九三一年に大連で生まれ育ち、新中国が誕生した翌々年から日本関係の仕事を手がけるようになり、以来五十年間、ずっと日本と関わりあってきた。若いころは大連で、人民政府の勧めで残留した日本人技術者の子弟のための学校で中国語を教えたのを皮切りに、一九五二年の暮、北京にきてからは、日本向けの雑誌『人民中国』の翻訳・編集をし、その後一九六四年から一九七八年の六月までの十五年間、『光明日報』および新華通信社の東京駐在特派員として、取材などで日本の方々にいろいろお世話になった。帰国してからは、外文出版局と中央政府の文化部で日本との文化交流の仕事に携わってきたが、第一線から退いた今でも、日本との友好交流の仕事は続けている。
 そんなわけで、この本が中日国交回復三十周年にあたる今年に、日本の読者の皆様に読んでいただけるのも、なにかの縁ではないかと、我ながら不思議な気がしてならない。
 ご存知のように、この五十年間、中日関係は大きく変貌した。私はこの変化の中に身を置いてきたが、時には通訳、時には記者として、歴史的とでも言うべき重要な場面にたびたび居合わせ、また時には微力ながらもそうした友好交流を直接手がけたりした。特に、五〇年代から六〇年代の中頃にかけて中日関係がまだ正常化される以前に、仕事の関係でしばしば毛沢東主席や周恩来総理、劉少奇主席、鄧小平副総理、陳毅副総理、王震副主席、郭沫若氏らの通訳を仰せつかったが、自慢ではなく、そのことは私の生涯にとって忘れることのできない貴重な体験となった。
 五十年前をふりかえると、当時の中日関係はまだ民間の往来に限られていたが、双方の努力によって、中日関係も当初の小さな“せせらぎ”から、今日のようなたる歴史の潮流に発展した。当事者の一人として、まことに喜びに堪えない。


「情」に重きを置いた関係を
 しかし、中日関係の中で、二十世紀に発生し、徹底的に解決されないまま残されたいくつかの問題、たとえば日本の一部に見られる“歴史認識”問題や台湾に対する煮え切らない態度など、見過ごすわけにはいかない問題が存在していることも否めない事実であろう。これらの問題は二十一世紀に持ち越さざるを得ず、そのため、中日両国が二十一世紀に向けて平和と発展のための友好協力パートナーシップを構築するのに、不安定で予測しがたい要素が加わってしまった。こうした問題を解決し、偶発的あるいは突発的な要素が中日関係の大局に副次的な作用や破壊的な結果をもたらすことを避け、中日関係の各分野でバランスのとれた協調性を保持しながら、共同の繁栄を求めていくためには、どうすべきかを真剣に考える時がすでに来ているように思われる。新旧世代の交代期にさしかかっている中日友好事業の発展の中で、いまこそ両国人民、とりわけ若者たちのあいだに、きびしい試練に耐えられるような、しかも「情」に重きを置いた人間関係を築くことがきわめて重要だと考える。
 私は、このことを念頭に入れて、個人の体験を交えながら回想録風にまとめたのがこの本である。この本の中国語版が出版されたのは、三年前であるが、あれから三年の月日がたった今も、中日関係の基本や今後の発展趨勢に対する私の見方は、少しも変わっていない。
 私に言わせれば、平和、発展、友好、協力、これが二十一世紀の中日関係のキーワードだと思う。そして、これは中日両国民の共通の願いであり、目指すべき目標でもあると確信している。この目標を実現させるには、国交回復時の原点に立ちかえることが肝要であり、その上で、相互理解と相互信頼を強めることがこれまでのいかなる時期よりも重要になってきている。私たちの交流は、ムードづくりに留まってはならず、心を開き、腹を割った、魂の触れ合いでなければならないと思う。中日両国は、たしかに文化的に多くの共通点を持っている。しかし、同時に「相違」が存在することも率直に認めなければなるまい。ある意味で、中日文化は「異文化」なのである。
たとえば、日本で人口に膾炙している子規の名句「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」であるが、中国の日本文学研究者である李芒氏は、この句を「方啖一顆柿、鐘声悠婉法隆寺」と訳した。出色の出来栄えというべきであろう。しかし、これを読んだ中国の読者には、真っ先にこんな疑問が浮かぶはずである。「なぜ柿を食うと、法隆寺の鐘が響くのだ? りんごを食ったのではダメなのか?」ところが、日本人がこの句を読めば、きっと秋の気配の色濃く立ち込める奈良のイメージが心に浮かび、そこからさまざまなことを連想するであろう。このような「相違」を認めてはじめて、相互理解を深め、真底から己を知り相手を知ることができ、そこから相互信頼も生まれてこよう。
もしこの本が中日両国民の相互理解と相互信頼に少しでもお役にたつことができれば、これにすぐる喜びはない。


野間宏氏を偲ぶ
  その意味で、出版人の鋭敏な感覚によって、いち早く拙著に目をつけられ、日本語版の出版を快くお引き受け下さった藤原良雄先生と藤原書店に深甚なる謝意を表明したい。私は、友人・藤山純一氏を介して藤原社長のお名前を知ったのだが、残念ながら、まだ一度もお目にかかったことがない。“硬派一筋”に生きた出版人として、藤原氏はこれまでに日本と外国の名作を数多く世に送り出され、とくに野間宏の『完本・狭山裁判』、『作家の戦中日記』などの出版は有名で、大きな反響を呼んでいると伺っている。私自身、野間宏氏とは一九六〇年代いらいの懇意で、氏のお許しを得て『残像』の中国語訳をさせていただいたこともあり、この本の日本語版の出版にあたっては、中国語版に収められていない、野間氏についての思い出を特にいれていただき、氏を偲ぶことができたことは、著者として喜びもまた一入である。


日本で読まれることの喜び
 この本は、もともと中国の読者を対象に、中国語で書かれたものである。中国語版が出版されて間もなく、『北京週報』に書評が載り、本書が「単に一知識人の回想だけでなく」、「中日国交正常化以前の『中日外交前史』の臨場感のある基礎資料」であり、「中日交流の一側面を照射した記録」であると過分なお褒めの言葉をいただき、その上、「この本は決して中国語版だけで終わることはない。日本の読者の皆さんが日本語で読める日が来ることを信じて」いると激励してくださったが、はからずもそれが実現したわけである。このたび日本語に翻訳する際に、読者の習慣と実情を考えて、文章や字句などの面で若干のアレンジをしたが、むろんオリジナルにはあくまでも忠実である。
 ちなみに、私はこの五十年間、日本との文化・学術交流にも多くたずさわってきたが、そのことについては、今年の六月商務印書館が出版した拙著『心霊之約――我親歴的中日文化・学術交流』(中国語版)におさめられており、この本の中ではほとんど触れられていない。この点、ご了承を願いたい。言うまでもなく、『心霊之約』は本書の姉妹篇であり、いずれ日本語版をおとどけできるようになるのではないかと期待している。
 ともあれ、日本の読者の皆様にこの本を読んでいただけるのは、わたしにとって幸せであり、心から嬉しく思っている。本書に思い違いや適切さを欠く点が多々あろうが、お読みのうえ、忌憚のないご批判、ご叱正を賜れば幸いである。

二〇〇二年六月一五日 北京にて